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伊58潜とインディアナポリス

かつて、広島・長崎に投下する原爆を輸送した米海軍の重巡洋艦を、海に沈めた日本の潜水艦がありました。
 
その潜水艦の名は、伊号第58潜水艦(以下「伊58潜」)。艦長の名は、橋本以行(はしもと もちつら)海軍少佐(当時)です。
 
歴史に「たら、れば」はありませんが、もし、伊58潜がその船を原爆輸送中に撃破できていたら、広島・長崎への原爆投下を阻止できたかもしれません。

在りし日の伊58潜

1 伊号潜水艦とは
日本海軍は、1905年から終戦までの40年間で241隻の潜水艦を建造しました。そのうち、伊(イ)号潜水艦 (注1) は、日本海軍が運用していた巡洋潜水艦のことを指します。
 
(注1) 日本海軍は、排水量に応じて潜水艦を次のように定義
伊(イ)号:1,000トン以上(119隻)
呂(ロ)号:500~1,000トン(85隻)
波(ハ)号:500トン未満(37隻)
 
伊58潜は、1941年に横須賀海軍工廠で建造され、大戦末期の1944年12月から戦線に投入されました。

「伊58潜」と「海自潜水艦」の比較
(Created by ISSA) 

なお、同じ伊号でも400型は、当時としては世界最大級の潜水艦で、長さが122mもあったそうです。
 
2 伊58潜の出撃記録  
伊58潜は軍港「呉」に配備された後、他の5隻の潜水艦とともにグアムへの攻撃隊が編成され、1944年12月末、大津島で人間魚雷「回天」を甲板に載せて初陣に出しました。

年明け1月11日、グアム近海で4基の回天をすべて発進させましたが、戦果を確認することなく呉に帰還。
 
4月1日からの3度目の航海では、戦艦大和の水上特攻に合流するつもりでしたが、慶良間諸島付近で悪天候に見舞われ、大和に合流できませんでした。

その後、伊58潜は少し改造され、新たにシュノーケルを装備したほか、甲板には回天を最大6基搭載できるようにしました。
 
7月中旬からの4度目の航海では、グアムとレイテ湾を結ぶ航路に出て、パラオ北方300海里付近で輸送船と駆逐艦を発見、多聞隊(注2) の回天2基を発進させましたが、この時も戦果は確認できませんでした。
 
(注2) 平生(ひらお)基地の跡地にある「阿多田交流館」には、多聞隊に関する数多くの資料が展示されている

3 インディアナポリスとの遭遇
7月29日午後11時頃、伊58潜がパラオの北250海里付近で哨戒していたところ、月光に照らされた1隻の水上目標を発見します。
 
橋本少佐は、この目標はアイダホ型戦艦(注3) の可能性があり、12ノットで航行していると考え、魚雷で攻撃できると判断しました。
 
(注3) 少佐は、この船はアイダホ型戦艦ではなく、重巡洋艦インディアナポリス(USS Indianapolis、艦長はチャールズ・B・マクベイ3世・海軍大佐)で、原爆をサンフランシスコからテニアン島に輸送後、レイテ島に移動中だったと、終戦後に知ることになる

午後11時26分、伊58潜はインディアナポリスの右舷側60度、約1500mに位置し、当時、世界最強の九五式酸素魚雷6本を扇状に発射。うち3本が目標に命中しました(このときインディアナポリスの通信機材を破壊、SOSの発信ができなくなった)。
 
潜望鏡を上げて確認すると目標は未だ浮いていたため、橋本少佐は再び潜航して留めの魚雷を準備します。
 
この時、回天搭乗員から「敵が沈まないなら出してくれ」と発進を催促されたようですが、橋本少佐は最後まで回天の使用を認めません(注4) でした。
 
(注4) 少佐は後年、「無駄な特攻で、これ以上の戦没者を出したくなかった」と回顧

Britaninca.com

再度、潜望鏡で確認すると、いつの間にか目標は水面から姿が消えていました。
 
インディアナポリスは、通気のため艦内の防水隔壁を開放しており僅か12分で全没、多くの乗組員が逃げ遅れたのですが、海上に逃れた乗組員にも、この後、想像を絶する苦難が待ち受けていました。
 
救命ボートなしで海に漂い、ある者はサメに襲われ、ある者は渇き、飢え、寒さなどで次々と命を落としていきました。

この航海は極秘だったこともあり、予定日の7月31日になってもインディアナポリスが港に到着しなくても、米軍上層部は差して気にも留めず、捜索隊を出さなかったのです。
 
沈没から4日が経過した8月2日、偶然、哨戒中だった米軍機が彼らを発見し、水上飛行艇の「PBYカタリナ」や、駆け付けた米艦艇により救助(注5) されました。
 
(注5)  沈没時、乗員1,196名中およそ900名が艦を脱出したが、その後、漂流中に584名が失われ、生存者はわずか316名であった
 
8月15日、伊58潜は豊後水道に向けて航行中に終戦の詔勅を受信。8月17日、平生で回天を降ろし、翌8月18日に呉に帰還しました。
 
4 両艦長の数奇な運命
マクベイ大佐は、海軍大将まで上り詰めた父を持つ、いわば海軍一家のエリートでした。上層部からも部下からも信頼されていましたが、戦後、この沈没の責任を問われて軍法会議にかけられた(注6) のです。
 
(注6) 第2次世界大戦で、米海軍は700隻以上の艦艇を失ったが、軍法会議にかけられた艦長はマクベイ大佐、ただ一人
 
上層部は、「魚雷攻撃を回避するためのジグザク航行を怠った」として、マクベイ大佐1人に責任を負わせようとしたのです。
 
1945年12月、その証言者として橋本少佐がワシントンの軍事法廷に招へいされました。
 
予備審問では、橋本少佐は「ジグザグ運動をしていたとしても、あの位置なら確実に攻撃できた」と証言(注7) し、米海軍上層部の期待を裏切ってマクベイ大佐を擁護しました。
 
しかし、米側は「概ね直線的に航行していた」と通訳したので、橋本少佐は事実と異なると主張しましたが、撤回されませんでした。そして、本審で証言台に立つことなく日本に帰国することになったのです。
 
(注7) 少佐は、後年、魚雷攻撃の回避には高速航行が最も有効であり、上層部が主張するジグザグ航行にどれほどの効果があるかについて疑問を呈している

結局、マクベイ大佐は艦を危険に晒したとして有罪となりました。これにより、海軍エリートとしての大佐のキャリアは終わり、インディアナポリス乗組員の遺族に責め続けられて、1968年に自ら命を絶ったのでした。
 
マクベイ大佐の名誉は、それから30年以上が経過した2000年10月30日、米連邦会議によって回復されましたが、橋本少佐はこの朗報に接する僅か5日前に他界しました。
 
かつて、大洋で戦い合った敵の艦長を軍事法廷で擁護し、米海軍の期待を裏切って真実を証言しようとした橋本少佐。終戦後は川崎重工勤務を経て、1970年代から梅宮大社の宮司となり、太平洋戦争で亡くなった全ての御霊の鎮魂を祈り続けた。
 
1990年12月には、ホノルルで当時のインディアナポリス乗組員らと交流し、困難を乗り越えて互いを讃え合ったという。その交流は橋本少佐の娘や孫にも引き継がれた。
 
マクベイ大佐を擁護し、名誉回復のために奔走し、戦没者のために祈り、そして元乗員との和解に努めた。
 
その生きざまに、私は真のサムライ・スピリットを感じずにはいられない。
 
こういう言い方は語弊があるかもしれませんが、「原爆を落としたアメリカに一矢報い、戦後は一転、和解と鎮魂に身を捧げた艦長がいた」ということを、私たちは忘れてはならないでしょう。
 
他方で、マクベイ大佐のように責任を押し付けられたこの軍事法廷のみならず、一方的にA級戦犯を裁いた極東軍事裁判をみるに、法の理念を捻じ曲げ、弱者や敗者に押し付けようとする当時の民主主義を名乗る戦勝国の横暴さが垣間見えます。
 
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米国インディアナ州には、立派な記念碑が建立され、多くの人が訪れているという。

USS Indianapolis CA 35 Memorial

この出来事を描いたノンフィクションは、米国内でベストセラーとなり、多くの米国人が知るところとなりました。

そして、2016年には映画化された。

米国では橋本少佐のことがこれだけ広く知られているのに、日本ではあまり知られていない。記念碑はおろか、映画化もされていないのは誠に残念なことです。
 
一応、橋本少佐をモデルとしたといわれている「真夏のオリオン」という映画が製作されていますが、これは実物とは全く別物です。

もちろん、フィクションとして観れば大変素晴らしい作品ですが、日本の映画界には、是非、日本人の目線で橋本少佐の生き様に焦点を当てたノンフィクション映画を創って欲しいと、そう思います。
 
5 五島列島沖に沈められた伊58潜
伊58潜は、11月に入って佐世保に回航され、1946年4月1日、北緯32度37分 東経129度17分の五島列島沖で、米軍による「ローズエンド作戦」の実標的として使われ、他の23隻の潜水艦とともに海中に没した。

その後、2017年5月、ラ・プロンジェ深海工学会が、五島列島沖の水深200mの海底に突き刺さった伊58潜を発見した。

一方、インディアナポリスも、2017年8月にマイクロソフト共同創始者のポール・アレン率いる民間チームが、フィリピン海の5,500mの深海底で発見しています。

教訓①:戦略的思考の重要性
1920年代に日本人が発明した電探(レーダ一)の主要構成品は、旧・日本軍の間で活用されることはありませんでした。
 
他方、米側は進んで電探を導入したことにより、ミッドウェー海戦では日本側の動きが察知されて大敗を喫し、空母4隻と数百機の艦載機を失った。
 
後期型である伊58潜には、辛うじて電探が装備されていたが、もっと早く電探の装備化が進んでいれば、日本の潜水艦も苦戦を強いられることはなく、ひょっとしたら、原爆のテニアン輸送さえも阻止できたかもしれない。
 
これは現代にも通ずる話で、戦略的思考が欠如して、抑止力を高める目的での先端技術の軍事適用を疎かにしていると、後世を窮地に立たせる可能性があるということを物語っています。
 
教訓②:慎始敬終の重要性
終戦期の米軍は戦勝ムードに包まれ、上層部は、当該海域で日本の潜水艦に警戒を要することについてインディアナポリスに注意喚起しておらず、護衛もつけていませんでした(そもそも、何故、標的になりやすい重巡洋艦に輸送させたのかという疑問もある)。
 
また、7月31日に到着するはずのインディアナポリスが港に現れなくても関知せず、乗員の捜索救助が遅れに遅れた。
 
一方、インディアナポリス自体も当該海域でジグザグ運動や高速航行を行わず、防水隔壁の開放状態を容認し、その結果、魚雷攻撃による浸水で短時間のうちに沈没に至った。
 
これも現代にも通ずる教訓であり、上層部から現場に至るまで、ひとたび慢心の空気感に包まれると、警鐘を鳴らす者を倦厭して耳を貸さなくなり、慢心への自覚すら難しくなるということです。

恨みをのんで眠る あまたの戦士
万里の波濤遠く
我らの耳に聞こえる「海底の声」
 
悲惨であった戦争の 知られざる実相を
いまにして我々は 改めて見つめねばならぬ
 
そして 彼らの残した闘魂を
我々は正しく 受け継いでゆかねばならぬ
 
~ 橋本以行 ~

梅宮大社