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「回天の島」と呼ばれる大津島へ

先日(オミ株流行前)、「回天の島」と呼ばれる山口県周南市の大津島(おおづしま)に行ってきました。
 
「回天」は、太平洋戦争末期に海軍が開発した特攻兵器で、操縦者ごと敵艦に体当たりする、いわゆる人間魚雷のことです。
 
回天とは、古来「天を回(めぐ)らし戦局を逆転する」ことを意味する言葉で、人間魚雷「回天」には、大型艦でも一撃で沈める威力があったことから、その名のとおり、まさに「戦局の逆転」を期待された秘密兵器だったのです。
 
今回は、戦時中にその訓練基地が置かれていた大津島を中心に、人間魚雷「回天」と「特攻」についてお話したいと思います。
 
1 回天誕生までの経緯
1941年12月に勃発した太平洋戦争では、当初、日本が優勢でしたが、1942年6月のミッドウェイ海戦で大敗を喫し、1943年2月にガダルカナル島から撤退すると、徐々に劣勢に立たされていきました。
 
そうした状況の中で、起死回生の戦法として考えられたのが、空や水上、水中からの特攻作戦でした。
 
回天開発の話が持ち上がったのは戦況が悪化した1943年夏のことで、余っていた九三式酸素魚雷を活用できないかと考えた黒木博司・大尉(没後、少佐)が発案(注1) したものでした。
 
(注1) 回天特攻隊は、戦闘機による神風特攻隊や艦船による水上特攻隊のように軍令部が発案し下命されたものではなく、若手幹部が発案し軍令部に上申されたものだった
 
当初、軍令部は黒木大尉の申し入れを認めませんでしたが、1944年2月、トラック島が米軍により壊滅的な打撃を受け、本土決戦が現実味を帯び始めると、黒木大尉に極秘での試作が命じられました。
 
試作機が完成したのは同年7月で、翌8月には軍令部が正式に秘密兵器として開発を承認しました。
 
この秘密兵器に回天と名付けたのは水雷学校の大森仙太郎校長といわれていますが、開発に携わった黒木大尉も、たびたび、この言葉を使用していたようです。
 
2 回天訓練基地
こうして1944年9月、九三式酸素魚雷の発射試験場があった大津島(注2) に、回天の訓練基地が開設されました。
 
しかし、まもなく大津島だけでは手狭になり、同じ山口県や対岸の大分県に、相次いで別の回天訓練基地が開設されました。
 
(注2) 呉海軍工廠で開発された九三式酸素魚雷は、それまでの魚雷よりも射程が長くなり、もっと長い距離で試験できる海域が必要になったことから、呉の近傍で新兵器の機密性が保持される場所として大津島が選ばれた

回天訓練基地が設置された場所(Created by ISSA)

最終的に搭乗員の訓練を受けた兵士は1,375名でした。出身は海軍兵学校、機関学校、水雷学校のほか、その大半は飛行予科練習生、つまり本来は飛行機のパイロットになるはずの練習生だったのです。

左上:光基地跡、右上:阿多田交流館
左下:平生基地、右下:平生基地  
(Photo by ISSA)

3 「回天の島」大津島へ
大津島に行くためには、徳山港から大津島巡航フェリーを使います。島には幾つかの港があるのですが、回天記念館に行くには馬島港で下船します。
 
余談ですが、前回「戦艦大和と軍港「呉」の歴史」でお話した、1945年4月6日に戦艦大和が水上特攻隊として沖縄に向けて出撃した最後の泊地は、この大津島のすぐ南側の海域でした。

大津島への行き方(Created by ISSA)

徳山港には、映画「出口のない海」に使われた回天のレプリカが展示されています。馬島港までフェリーでおよそ45分です。
 
瀬戸内の海は比較的に穏やかなので運航は終始快適で、徳山の市街地や工業地帯、風光明媚な島々の景観を楽しめました。

左上:回天のレプリカ、右上:大津島巡航フェリー
左下・右下:船上から見る徳山の市街地と工場群 
(Photo by ISSA)

山口県周南市の大津島は、人口わずか200人の瀬戸内海に浮かぶ島のひとつです。かつて本島と馬島の二島に分かれていたものが、400年ほど前に砂州で繋がったといわれています。
 
馬島港に着くと、「ようこそ『回天の島』大津島へ」と書かれた大きな看板が目につきます。港に降り立つと、個性豊かでかわいい島猫たちが出迎えてくれました。港のすぐ近くには2019年末に建立された真新しい大津島回天神社があります。

左上:磊磊モニュメント、右上:回天神社
左下:馬島港、右下:島猫
(Photo by ISSA)

回天整備場があった大津島小学校を右手に見ながら小道を上がっていくと、回天記念館に辿り着きます。
 
記念館には、回天に関わる遺品・資料、搭乗員たちの遺影が展示されているほか、当時の時代背景・生活ぶりなどが紹介されています。
 
大津島での訓練が始まって間もない1944年9月、悪天候により水深18mの海底に着底する事故に遭い、やがて酸素欠乏により殉職した回天発案者・黒木大尉が艇内で書き残した遺書も展示されていました。
 
また、回天内部の操縦室を再現したレプリカが見れるのは、恐らくここだけだと思います。

左上・右上:回天記念館 
左下:回天のレプリカ  
右下:回天内部のレプリカ
(Photo by ISSA)

回天資料館を後にし、来た道を途中で折れて西の方へ向かうと、やがて長いトンネルに出くわします。当時、整備場と発射場の間を回天を含む魚雷や将兵らが往来するために作られたものでした。
 
終戦までの約1年間、回天搭乗員たちはいったいどんな気持ちでここを往来していたのでしょうか。

左上・右上:発射場に続くトンネル
左下・右下:発射場跡      
(Photo by ISSA)

4 回天の概要
回天は、九三式酸素魚雷をベースに開発されました。当時はホーミング(目標を自動追尾する)魚雷の技術はなく、必中を期すためには人が乗り込むしかなかったのでしょう。
 
魚雷の主要部分はそのままで、弾頭とエンジンのあいだに操舵席を設置し、操舵席には潜望鏡と操縦装置が取り付けられました。
 
当初は搭乗員の脱出装置を設けることが検討されましたが、最終的に設置は困難と判断され、脱出装置を持たない特攻兵器として採用されました。

回天の性能・構造等

回天の操縦は非常に難しかったようです。
 
航行中の敵艦に会合できる「適切な針路・速力」を維持しながら、燃料消費に伴う浮力変化に応じて、手動による前後タンクへの海水注入により「船体のバランス」を保ちつつ、敵艦の喫水に応じた「適切な深度」となるようにコントロールする技術が必要でした。 
 
回天は、伊号潜水艦の上部甲板に搭載されて出港しました。
 
潜水艦が敵艦船を発見し、艦長が回天による攻撃を命令すると、搭乗員がハッチを通じて回天に乗り込み、発令所から電話で伝えられる目標の針路・速力等の情報を得て発進します。
 
そして、目標の近くまで進んだところで一旦浮上し、潜望鏡で目標を再確認して針路等を再修正した上で、再び潜航してあとは「盲目のまま」全速で突っ込みます。
 
エンジンを始動し航走し始めると燃料が尽きるまで停止できない構造から、ひとたび発進した回天と搭乗員は、体当たりに失敗したとしても、2度と母艦に帰ってくることはありませんでした。
 
神風特攻隊の戦闘機は250kg爆弾を抱えていましたが、回天では1.55トンもの炸薬を搭載していました。戦闘機の体当たりで敵艦を沈めることは至難の業でしたが、冒頭でも述べたとおり、回天なら一撃で大型艦を沈没できる破壊力を持っていたのです。
 
5 回天特攻隊の戦果
このように、起死回生の「ゲーム・チェンジャー」と期待された回天特攻隊だったのですが、終戦前の1945年8月8日までに回天によって沈められたアメリカの艦船は3隻、損傷を受けたのは4隻でした。
 
この間、延べ153人の搭乗員が出撃し、80人が回天で戦死、更に回天戦に参加して未帰還となった潜水艦は8隻で、その乗員は811名に上りました。
 
戦果に対する日本側の損害は甚大なものでしたが、アメリカ軍にとり回天は最大級の脅威であり、その行動にかなりの制約を与えていたようです。
 
6 特攻はテロではない
ところで、自爆テロを意味する言葉として、海外メディア等がしばしば誤って「Kamikaze Attack」などと報じることがあります。特攻隊は、果たして自爆テロだったのでしょうか。
 
共通しているのは「みかけ上、自らの命を犠牲にしていること」ただそれ一点のみです。しかし、実態は全く異なるものでした。
 
アメリカ国務省では、国際テロリズムに関する報告書の中で、テロのことを「非国家組織によって行われる、政治的な動機による、(民間人など)非武装目標への計画的な暴力行為」と定義しています。
 
しかし、特攻は「海軍や陸軍という国家組織によって行われ、日本を死守することを動機として、迫りくる敵の軍艦という武装目標を排除する行為」であったことから、この定義の「いずれにも当てはまらない」ことは明白です。
 
特攻隊が攻撃対象としたのは軍艦であり、彼らが無垢の民間人を特攻の対象とし、恐怖におとしめたことは一度もありません。
 
国策としての是非はさておき、隊員個人個人の心情としては、政治的な目的など微塵もなく、ただただ、迫りくる空襲や侵略(注3) から愛する人たちと郷土を守りたかった。
 
万策尽き果て他に手はなく、身を挺してでも守りたかった。その思い、その姿は、テロなどとは言わないのではないでしょうか。
 
(注3) 当時は軍令部や新聞社による情報操作が当たり前の時代で、また海外事情が正しく国民の間に普及していなかったことから、米軍が本土に上陸すると家が焼かれ、家族が殺され、或いは鬼畜のように扱われると考えられていた
 
7 厳然たる事実と向き合う
平和な時代に生きる私たち現代人は、こうした厳然たる過去の事実にどのように向き合ったら良いのでしょう。
 
もし自分が特攻隊の隊員だったらと思うと、とても怖ろしい気持ちになるでしょう。そして、日本は何て酷い兵器を生み出したんだ、許せないなどと、人として当たり前のやり場のない感情に駆られるものです。
 
他方、隊員たちが出撃前に残した数々の遺書には、いずれも泣き言をいわず正々堂々と死地へ向かう決意が書き綴られています。それは、誰かに強要されたのではないかと勘繰りたくなるほど、達筆で勇ましいものばかりです。
 
しかし、それらの遺書をみていくと、次第にその行間に彼らの揺れ動く心の内をうかがい知ることができます(中には、植村眞久・海軍大尉の遺書のように、溢れんばかりの愛情を率直に表現されている遺書もある)。
 
これらの遺書を読めば読むほど、彼らにも愛する人や郷土があり幸せに暮らしていきたかった、そういう意味では、今の自分たちと何一つ変わらなかったということが、ひしひしと伝わってくると思います。
 
とても可哀そう。二度とこんなことがあってはならないーーー。
 
やがて、誰もがそういう悲しい心境に至ると思います。ただ、もう一歩踏み込んで考えてみましょう。特攻隊は本当に可哀そうなだけだったのでしょうか。それは上辺だけの感情であって、本当に当時の人たちの「思い」に辿り着けているでしょうか。
 
特攻隊の生存者の方々が口をそろえて話すこと、それは、「自分だけ生き残って恥ずかしい」ということです。
 
裏を返せば、遺書に書き記された極めて強靭な決意は、どうやら本心からの言葉であり、私たちの想像も及ばない葛藤や苦悩の末、自分の死によって多くが救われるという究極の利他の心に基づいて発せられたものだったのです。

☝ 著者・宮本雅史氏は、あとがきで「特攻を考えることは人間を考えることだ」と締め括っている
 
つまり、人としての根源的な情愛や優しさは、今を生きる私たちと何一つ変わらないけれど、彼らが持っていた哲学や信念、郷土愛などは、今とはかなり異なるということです。
 
ですから、平和な時代に生きる私たちが、今の価値観で当時の考え方や行いについて是非を断じることなどできないと思います。あの当時はそういう時代だったとあるがままを受け入れる。
 
重苦しくて悲しい過去の戦争という「厳然たる事実と向き合う」とは、そういうことだと思います。
 
おわりに
私は若い頃から鹿屋、知覧、呉、江田島、沖縄、硫黄島、そして今回の大津島など、様々な史跡や資料館を訪れ、書物を読み、体験談に耳を傾け、特攻について人一倍多く考えてきました。
 
それこそ、二十歳前後の多感な時期に初めて訪れた資料館では、自分より若い特攻隊員が残した沢山の遺書を、ぐしゃぐしゃに泣きながら読んだ記憶があります。
 
だからといって、特攻隊を美化したり、戦争を肯定するつもりは毛頭ありません。「戦ってくれたから今がある」と言えるかどうかも、本当は誰にもわからないと思います。
 
ただ、たとえ重苦しくて悲しい戦争であっても、先ずは「真実を知りたい」と思うこと、そして厳然たる事実をあるがままに受け止め、身を挺して戦ってくれた若者たちに思いを馳せ、後世を生きる私たちは、より良い社会の再建を託されたということを、心の片隅に留めおくことーーー。
 
「悲惨な戦争を二度と繰り返さない」とは、本当はこういうことかもしれないと、水面に陽光が輝く大津島の美しい海が、そう教えてくれたように思います。

「百人の人に笑われても一人の正しい人に誉められるよう、百人の人に誉められても一人の正しい人に笑われないよう」(故・黒木少佐の母の言葉)