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シングルマザーであるということについて考えてみる。ー看護師の仕事につくまで①

シングルマザーって本当に気楽です。
夫がいないから、夕飯も自分の好きなものを作って食べられる。
私はASDなので、気に入ったものを飽きるまで毎日食べてしまったりします。
息子は味覚過敏があって、触感に過敏です。
寿司も醤油をつけないで食べます。

息子とは別メニュー。
それぞれが好きなものを食べる。
フィンランドの家庭の朝ごはんスタイルみたいですね。

日本の家庭では家族そろって食べる家も多くありませんが、
外国では結構、それぞれが好きな時間に好きなものを出して食べるというのも多いんですよね。

さて、シングルマザーについてあまり書いて来なかったので、少し振り返ってみます。

家を出たのは、息子が9か月になったある日のこと。離婚が成立したのは、息子が1歳になった夏でした。

そんな彼ももう小学校の最終学年。
シングルマザー歴11年。
母親歴12年。

看護師の資格があるということは、今後の生活を考えたときに不安をなくしてくれた要素の一つだったと思います。

『経済的に自立しているということ』これは、どんな道に進むのにもそうだと思いますが、自分の足で立っていられるということは、
自由を手に入れることでもあります。

看護師という仕事は、本当に楽ではないです。
何がって、
仕事そのものも楽ではないし、目に見えないところで「命を預かっている」という責任感を感じながらの精神的負担もある。
交代勤務で体もきつい。
体液や血液の暴露、感染症患者の看護。自らが感染するリスクも常にあるという危険も伴う現場。

看護師業務はよく、「きつい」「きたない」「きけん」の頭文字を取って3Kと呼ばれてましたが、最近は9Kという言葉も登場しています。

「きつい・汚い・危険・休暇が取れない・規則が厳しい・化粧がのらない・薬が手放せない・婚期が遅い・給料が安い」

薬が手放せない、というのは、もうずっとそうでしたね。

不規則勤務で、慢性頭痛や、生理周期の乱れは常態化し、
眠剤を内服しないと眠れなかったり。

コロナの流行以降は考えられませんが、
私が病棟勤務をしていた新人の頃は、熱が出ても座薬を入れて出勤する先輩は普通にいました。

今から思えば恐ろしいのですが、
私自身も胃腸炎を夜勤中に発症して、嘔吐下痢でふらふらになりながらも、自分に点滴をしながら患者さんのラウンド(夜勤中に状態確認や点滴の残量の確認をするための見回りをする)ということもありました。

そんな体調の看護師、胃腸炎が感染性のものだったら危険です。
20年近く前のことですが、目先の「人がいないから休めない」に、
かなり囚われていたんだなあと思います。

(コロナのおかげで、体調が悪ければ出勤しない、という文化は
その点だけ見れば良かったのかもしれません。)

人工呼吸器の患者さんを見ながら、癌の末期の患者さんと、夜間救急で来た入院患者さんの受け入れ…

ほんとうに良くやっていたなぁと思います。

今はとても無理です。

看護師の仕事を志したのは、中学の進路選択の時でした。
当時私が好きだったのは、英語と美術。
特に、英語を人より早くに独学していた私にとって、
英語は本当に簡単だったので、3年間テストはほぼ全て100点。
英語だけは常に学年トップでした。

一方で子供のころから好きだった絵を描くということ。
本もマンガも好きだったので、漫画家か、翻訳の仕事も考えていました。

そんな矢先、国語の教科書に出てきた青年海外協力隊の看護師の話を読んで感動し、「なんてかっこいいんだろう」と胸を撃たれた私は、
商業高校に進学することも頭にあったのをやめて、
看護学校受験に向く普通科に進学することにしました。

当時は小泉内閣の時代。わたしの学生時代は不況の真っただ中でした。
就職氷河期だったというのは自分的にはあまり関係ないのですが、
母が常に、「手に職」と言い続けていたので、
多少は洗脳されていた部分もあるのかもしれません。(笑)
それで、高校に通いながらも資格が取れる商業高校も進路選択に入れていたのですが、
看護師になることを決めてからは、とりあえず普通科に通うことにしました。

女子高は嫌で、普通の公立高校で行きたいと思う学校がなかったので、
特待生として合格していた私立高校に通うことにしました。
当時から変なこだわりがあり、制服がかわいい学校じゃないと嫌だという邪道な考えもありました(笑)
それと、いまから思えばADHDの気質のせいで、つまらなそうな「ザ・進学校」は嫌だったんだと思います。
今から思えば、公立の名門校にしておけば学歴にもなるし、
お金も私立よりは安かったと思うので、そちらの方が良かったのかもしれません。
いずれにしても、興味のないことには頑張れないので、
進学校受験を無理やりしようとした時点で、勉強に身が入らなかったことと思います。

そんなわけで、私立の高校の特待生進学クラスなるものに入学します。
が、案の定高校の勉強は全く興味が持てず、
校則で禁止されているアルバイトをしはじめて、
放課後の友達とのおしゃべり、恋愛、バイト、
と、進学クラスの空気からは外れていきました。

制服がかわいいだけで選んでしまった学校は、
山奥から通うには、1時間半通学にかかり、
電車も乗り換えて行かないといけなかったので、
途中からは毎日ほぼ遅刻。
それでも、付き合っていた彼と同じ電車に乗りたかったので、
それをモチベーションに行っていました。

ただし、根はまじめなので、非行などには走りません。
初めてのアルバイト「マクドナルド」にて、時給680円でせっせと働きます。
「いらっしゃいませ~こんにちは。こちらでお召し上がりでしょうか?」と、マクドナルドルールを覚えて頑張って働いていました。
今から考えても、マクドナルドでの接客の精神はその後の人生にも影響する大きな学びでした。「笑顔で」「親切に」「丁寧に」という基本を16歳という年齢で学べたことはありがたかったですし、看護師になってからも社会人になってからも役立ちました。

そんなわけで、ちょっと脱線しながら送っていた高校生活。
17歳の冬に、わたしは交通事故にあいます。

高校2年生の冬。足を開放性骨折し、(骨が外に飛び出る状態)
救急車で運ばれて緊急手術しました。
事故にあったとき、靴が脱げそうになっているんだと思ったら、自分の足が取れそうになっていて、自分の靴裏が見えたときは血の気が引きましたが、
意外と冷静でアドレナリンが大量に出ていたからかあまり痛みも感じず、驚いている間にすべて終わったような気がします。
手術した晩に、なぜかお尻が痛いのでナースコールを押して看護師さんを呼んだら、お尻の皮がズル剥けしていて、(誰も気づいてくれなかったの?って思いますが、みんな足の方に意識が行っていたのかなと思います)それがとても痛かったのを覚えています。

高校2年生の冬というタイミングで入院・手術という体験をして、
それまでどこかに行っていた「看護師になる」という将来の目標が、また手の中に戻ってきました。

しばらく身が入っていなかった勉強。
高校3年生を目前にして、ようやく進路を定めることとなります。


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