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あの日 〜 東日本大震災から10年

多くの日本人にとって忘れられない日がある。
その日、僕は浅草にいた。
当時、結婚していて墨田区に住んでいたが、その日、区役所に用事があった。
吾妻橋の側にある区役所への用事は、結婚して新居のマンションに引っ越したばかりだったため、転居関係の手続きだった。
区役所の1階の転入・転出などを担当する女性の職員と手続きについての話をした。
普通の日ならすぐ忘れてしまうような事だった。
しかし、後から考えたら、このすぐ後、大地震が来ることなど僕や他の人や区役所の職員の誰一人として思っていなかったのだ。
それは当然の事と言えば当然の事なのだが、後から考えたら震災前の世の中と後では違う世界のように思えた。
東日本大震災は我々日本人にとってそれほど決定的に心に刻まれた出来事だった。

用事が済んで僕は区役所を後にした。
当時、妻は自転車に乗っていたが、僕は自転車に乗らなかった。
そのため自宅から区役所までは近いにも関わらず電車を使っていたのだ。
僕は東武線の浅草駅の正面改札口へ向かって歩いていた。
屋上に時計台のある松屋デパートと一体になった駅ビルである。
正面改札口から下る灰色の石階段を10数歩ほど降りた時、約10メートル先に改札が見えたが、その時であった。
改札を通る高齢の女性がよろけているように見えた。
次の瞬間、僕はとっさに今降りてきた階段を駆け上がっていた。
とにかく物凄い揺れだった。
駆け上がる最中、石階段の隙間が揺れのために若干開いたり閉じたりしている様が見えた。
そして、階段を登り終え外に出た。
午後3時前であった。

外へ出ると道路に囲まれたちょっとした広場のようなスペースだったが、地面が揺れていて立っているのも困難なほどで、周りに結構人がいたが、誰もがパニックに陥っていた。
金髪の外人の女性がしゃがみながら声を出して泣いていたのは今でも印象に残っている。
どこの国の人かは知らなかったが、地震を殆ど経験したことがないその人にとってこの揺れは相当な恐怖だったのだろう。
その時の僕や周りの人達の視線は主に雷門通りの左右に並ぶ雑居ビルに注がれていた。
一つ一つのビルが揺れているのが見てわかった。
ビルが皆、同じ方向に同じように揺れているのではなく、皆バラバラに揺れ動いているように見えた。
最初の時の揺れほどではないにしろ、何分経っても余震と思われる揺れは収まらなかった。
僕にはそれらの自然現象は神の怒りのように思えてならなかった。

僕は妻が心配で携帯で電話したが、自動音声が流れるだけで、何度電話しても繋がらなかった。
後で聞いた話では、妻はこの時、新橋にある慈恵医大病院にいた。
僕の妻は看護師だったことも関係あるが、自分の病院を医者の好き嫌いで選ぶ性格で、自分好みの医者の元へは多少遠くても通っていた。
僕はその時はまだ何処が震源で発生した地震なのかは知らなかった。
僕だけではなく周りの誰もがそうだっただろう。
何故なら、当時はまだ多くの人がいわゆるガラケーだったと思うが、その時は電話さえ繋がらなかったので携帯で地震の情報を見ることはできなかったのだ。
しかし、自分が今いる場所以外の場所で——具体的に何処かは検討がつかなかったが——甚大な被害が出ているに違いないと思った。

僕は今目にしている光景に愕然としていた。
「どうすればいいんだ」
もっとも気がかりだったのは妻のことだった。
僕の周りで死んだりケガしている人はいなかったにせよ、別の場所にいる妻がどういう状況にいるかはまったく検討がつかなかった。
もし彼女が…
嫌な想像が頭をよぎった。
妻には心から無事でいてほしいと思った。
僕はいつまでもここにいても仕方ないと思い、家へ帰ることにした。
地震が起こってからまだ15分は経っていなかっただろう。
自宅まで帰るには吾妻橋を渡る必要があった。
まだ余震が収まっておらず、橋を渡るのは怖かった。
橋を渡っている最中、橋が崩壊してしまうのではないかと心配したほどだった。
僕以外、誰も渡っている人はいなかった。
橋を渡っている最中の揺れは地上で感じる揺れより大きく感じ、怖かったので早足で渡り切った。

それまで区役所から自宅まで歩いて帰ったことはなかったので、道は詳しく知らなかったが、まだ上部が建設中のスカイツリーが見え、自宅はその近くだったため、とりあえずスカイツリーを目指して歩けば大丈夫だと思った。
タクシーの運転手が客を乗せているのを見た。
その運転手は歯が見えるほどの笑顔を浮かべていたのが印象的だった。
タクシーの運転手にとって今日は絶好の稼ぎ時なのかもしれないと勝手に想像した。
歩いている最中、人の姿はあまり見かけなかったように思う。
道を歩いている時、普通の大きさのパチンコ店が営業していたので、衝動的に中に入った。
それから僕の目はパチンコ店のホールの高いところに設置してある14型ブラウン管テレビに釘づけになっていた。
沢山の車が水の上にプカプカ浮いているではないか。
テレビ画面上に「東北」「津波」などの言葉を発見し、震源が東北地方に近いこと、既に大きな津波が東北地方を襲い、大津波警報が出されていることは把握できた。
パチンコ店では僕と同じようにテレビを見る従業員や客も数名いたが、他の客はこれだけの地震が起きた後でもパチンコをやり続けていた。
僕の横でテレビを見ていた中年の女性が信じられないというような顔をしていたのを覚えている。

スカイツリーの側に着くと、50名ほどの黒いスーツを着てヘルメットを被っている建設会社の社員と思われる人達が固まって立っていてスカイツリーの上部を眺めていたが、頂上付近のクレーンや塔の先端の部分が遠くから見てもはっきりわかるほど激しく揺れており、皆恐る恐る見ていた。
道路には既に渋滞が発生していた。
妻への電話は家へ帰るまでの道中、何度もかけたが通じなかった。
自宅マンションに着いて中へ入ると棚などから倒れて落ちている物がちらほらあったが、壊れていた物はなかった。
テレビを点けると東北地方のどこかの町の上空からの生中継映像が映っていて、まさに津波が地面を這う様子が映っていた。
それからはテレビに釘づけだった。
被害の状況はテレビの情報を頼りにする他なかった。
テレビ局でも当初は被害の全容は把握できず、被害の状況は徐々に判明してきたのでテレビから目が離せなかった。

テレビに新橋駅の上空からの映像が映った。
沢山の人が駅周辺にいてたむろしているようだった。
電車が動いていないので駅前にいるしかないのだろう。
妻から今日新橋に行くことは聞いていた。
あの中に妻がいるのだろうか。
また、電話をかけてみた。
やはり通じない。
津波に関しては東京は大丈夫のようだったが、北海道の弟が心配になった。
しばらくしてからもう一度妻にかけたらやっと通じた。
妻の声は流石に少し興奮しているように聞こえたが、今、新橋の駅前にいるということだった。
地震が起きた時は病院にいたが、何事もなく大丈夫だということだった。
しかし、電車が動かないために今日中に帰れないため、帰るのは明日になるだろうということだった。
北海道にいる弟とはしばらく連絡を取っていなかったが、心配だったので電話をかけると出た。
無事か尋ねると、無事だがまだどうなるかわからないとのことだった。
北海道にも津波の第一波が到達した後に違いなかったが、まだ第二波、第三波が来るかもしれないのでどうなるかわからないという意味だったのだろう。
しかし、それが現時点で弟と連絡を取り合った最後になった。
東京に住んでいる姉には、大丈夫だと思い電話しなかった。
日が暮れて夜になった。
テレビの夜の映像は被災地で炎が燃え上がる映像が映し出されていた。

僕は眠れなかったので、ソファに横になりながらずっとテレビを見ていた。
次の日の朝、明るくなってから新聞を1階にある郵便受けに取りに行くと、外が何やら騒がしいので道路の方まで出ていくと、片側1車線の道路だったが車が全然進まない大渋滞になっていた。
しかも、その渋滞は昨日からずっと続いていたようだった。
次の日になっても電車はすぐ走らなかったので、自分の家へ帰れないいわゆる帰宅困難者が都内の至る所に溢れかえっていたようだった。
僕の妻もその一人であった。
しかし、妻はその日、電車が走るようになってから帰ってきた。

あの日、あなたは何処で何をしていたか。
そして、あの日から今日まであなたはどう過ごしていたか。

東日本大震災からちょうど10年になる今日。
被災者の冥福と被災地の一日も早い復興を心よりお祈りします。


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