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メガネザルが怒った日...敬愛するT先生に捧ぐ

教室の人気者

1年1組の担任は「メガネザル」だった。

悪口ではない。

子供らは入学して幾日も経たないうちに
この自称メガネザルが大好きになっていた。

白髪交じりの短髪に分厚い眼鏡のメガネザル先生は、
一度もスカート姿を見せたたことがないという噂だった。

先生はいつもユーモアに溢れ、
眼鏡の奥では目がチカチカ笑っていた。
みんな先生が次に何を言うかと
眼をくりくりさせて待ち受けていた。
先生に叱られるととても悲しかった。
そして先生は「ヘソ取り」の名人だった。

入学したての1年坊がやってしまいがちな
忘れ物などのうっかりに対して、
先生は「ヘソ取り」をする。
「ヘソ取り!」と言いながら
子供のおなかをくすぐる仕草をするだけなのだが、
やられる前からなぜか子供は笑い転げてしまう。
痛くもかゆくもないけれど、不思議なもので
二度と忘れ物をしなくなる、、、かどうかは忘れたけれど。笑

先生はいつも活気に満ちていた。
朝はオルガンを踏み踏み「コーコケコッコー朝が来た!」を
子供らと声を競って歌う。

それが終わると、「せんせいのつくえ」に子供が山と積んだ
日記帳を抱えて職員室に引き上げる。

一日の授業を全て一人でこなし、
「帰りの会」には、朝集めた日記帳を返してくれるのだが、
その1冊1冊には、先生の感想が
赤ペンで書き込まれている。

次いで、「わ」という題の手書き学級通信を配る。
そこには、子供らのノートから先生がガリ版に書き写した、
日記や詩などが所狭しと並んでいる。
家に持ち帰った「わ」で
家族と一緒にお友達の日記を読むのが楽しかった。
「わ」に載っていた、「にせパパのゆめ」という
親友みな子ちゃんの書いたちょっと切ないストーリーを読んだときは
みな子ちゃんは天才だと思ったものだ。

一年生だから誤字・脱字も少なくないのだが
「わ」では、まず子供の表現を引用した上で、
問題の表記のナナメ上に小さなバッテンを書き、
その横に正しい表記を書き添えてくれている。

連絡用の学級通信は他クラスでも出していたが、
この手間暇かかった日記引用スタイルの
「わ」が、どうやら毎日続くらしいと分かると、
父母陣の反応は、「ベテランの担任に当たってよかった」を通り越して
「先生いつお昼召し上がってるのかしら?」に変わった。

メガネザル先生は、とにかく
楽しく、精力的で、あったかくて、頼りになる、
皆の人気者だった。

メガネザルが怒った日

そんな先生が怒った日のことは忘れられない。

先生は楽しいだけではなく、子供の能力を信じ、
教えるべきことは忍耐強く伝えてくれる
芯の通った教育者だった。
「先生がきたー!」という子がいれば
「親しき中にも礼儀あり」の意味を説き、
「怒られたー!」という子がいれば
「叱る」と「怒る」の違いを教えてくれた。

そんな時の先生は、いつも「叱って」いるのであって、
むやみに「怒」ったりはしなかった。

その先生が、一度だけ、「叱って」いるのではなく、
「怒って」いる、と感じた時がある。

ある時、
『わたしがちいさかったときに』という本の
感想を書く宿題が出た。
それは原爆の被害を受けた子供の文集で、
そこでは、自分と同じ6、7歳、下手をすると
もっと幼い三輪車の子らが
親兄弟を無残な姿でなくしたり、大けがをしたり
遠い親戚を頼って一人さまよったりしていた。

当時の私は感じやすいたちで、
映画の悲しいシーンを見ただけでも
めそめそしがちだった。
心配した父が
「映画はお芝居だからね。お芝居の中の人たちは、
演技で喧嘩したり、病気になったりしているけれど、
撮影が終わったら仲良く一緒にコーヒーを飲んでお話しているんだよ」
と懸命に教えてくれるぐらいだった。

それがこの本を読んだのだから、
1ページ、いや数行読み進むたびに、涙が止まらない。
読む内容が、否応なく五感で追体験されてしまう。
暗澹とした形容しがたい気持ちが、胸に固まっていく。
しかもこれは実話で、お芝居ではないという。

その時の私に、何かを「思う」ような余裕はなかった、と今思う。
それなのに、「思ったこと」を書くのが「読書感想文」だという。
無理やり何かをひねり出さなければならない。

「どうしてこの子たちはこんな目にあったの?」
「だれが、どうして、ひろしまに、げんばくをおとしたの?」
「せんそうは、だれが、どうしてしたの?」

親に聞いてはみるものの、
低学年が人間の性質や第二次世界大戦の背景を
一夜にして理解することなど不可能だ。

仕方なく、訳が分からないままに
絞り出した考えをノートに書きつける。
「せんそうをするなんて、頭がおかしいんじゃないのかな。
せんそうは、ぜったいにしてはいけないと思います。
もしもこれから、せんそうになりそうになったら、
止(と)めてほしいと思います。」

最後の部分は、思いの中では、
「止めたいです」だった。

でも、世の物事は大人が決めている。
自分はその決める側に入れてもらえていない。
どこに手紙を出すとか、電話するとか、
止める仕組みも知らない。
知っている手紙のあて先は、小学生新聞がせいぜい、、、。

当時の私は、小さいなりにそう観察していたので、
それを決める側の立場にいる誰かへの願いとして、
藁にもすがる思いで
「止めてほしいと思います」と書いた。

ところがである。
皆の感想文が集められた翌日。
先生は怒っていた。

あるいは、先生の心がむき出しになって
いたんでいるのが
子供心にも感じられて、それを
「怒って」いるのだと当時の私は感じたのかもしれない。
先生の目はとても真剣だった。
そしてちょっと泣きそうだった。

「戦争が起きそうになったら、
止めてもらうのではなく、
止めるのはみんななんだよ。
自分で止めなければいけないんだよ。」

先生はクラス全員に話していたのだが、
内容が自分の感想文にズバリ当てはまっていたので、
心臓がドキドキしてくるのが分かった。

脳内では、
「でも、子どもが、どうやったら、せんそうを止められるの?
だれに 言えばいいの?どこに 行けばいいの?
でんわ するの?手がみを かくの?やり方は?」
疑問が渦巻く。
当時の私は、
「先生はきっと、私たち子どもには、
ものごとを きめられないことが、
分かっていないんだ」
と、とても歯がゆかったのを覚えている。

先生の教えは、生き続けます。

あれから40年経ちました。
先生、今の私には、先生のおっしゃりたかったことが
分かってきた気がします。
大切なことは、一人一人が、声を上げていかなければならない。

あの時、先生が、
面白くて、ヘソ取り名人のメガネザル先生が、
声を震わせながらどうしても伝えたかったことが知りたくて、
そして世の中の物事を決める仕組みを知りたくて、
私は法学部を選んだのだと思います。

そして、あの時の先生の教えを伝えたくて、
娘が大きくなると、本棚に
『わたしがちいさかったときに』を置きました。
その娘ももう21歳になりました。

先生の教えは、生き続けます。
生き続けさせます。
先生。ありがとうございます。

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敬愛するT先生に捧ぐ
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-- お読み下さった方へ --
『わたしがちいさかったときに』には
原爆投下直後の、生々しい、ショッキングな
光景の描写が含まれています。

また、色々な年齢の子供の手記を集めたものですので、
ひらがな書きの短い詩から、
対象年齢が少し上がりそうなものまで、
内容もさまざまです。

お子さんに、とお考えの際には、
保護者の方が先に目をお通しになって
お子さんの成長度合いや性質に応じて、
慎重にご判断いただけたらいいのではと思います。

私は当時、怖い思いをしましたし、
今でも1ページごとに涙が止まりませんので、
もし読ませるとすれば、
お子さんがそうなった場合に、保護者の方が
しっかりフォローできるお時間があるときが
よさそうな気がします。
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