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なぜイスラエルは自国の行為を正当化するのか?犠牲者意識ナショナリズム①

ガザからは連日悲痛なニュースが伝えられます。
イスラエルは自らがホロコーストの被害者でありながら、なぜジェノサイドともいえるようなパレスティナ人の殺戮ができるのでしょうか?

またドイツはイスラエル支持を決してやめません。
ホロコーストの加害者であるドイツはなぜイスラエルの行動を批判的に見ることができないのでしょうか?

この問いに答えてくれるような本を読んだので内容を紹介したいと思います。


「犠牲者意識ナショナリズムー国境を越える「記憶」の戦争」 林志弦著



犠牲者意識ナショナリズムとは、植民地主義や2度の世界大戦、ジェノサイドで犠牲となった歴史的記憶を後の世代が継承するも自分たちを悲劇の主人公とみなし、民族や国家のアイデンティティとして、道徳的、政治的に自己正当化を図るナショナリズムのことです。

作者が新しく考えだした概念です。

しかし、このような考え方はたとえばイスラエルがことあるごとにホロコーストの経験を持ちだして自己の行為を正当化していることにあてはまるのではないでしょうか。


犠牲者意識ナショナリズムとはどのようにして生まれたのでしょうか?



民族や国家のために喜んで命を投げ出した犠牲者を称える儀式は共同体の絆を強く団結させます。
近代の国民国家はそのような存在を必要としました。
建国の英雄、愛国の英雄、民族を救った英雄の物語はそのために存在しています。

英雄中心の古典的民族主義ではなく、現代はその犠牲者の範囲を広げています。


近代国家は国に命を捧げた死者を称えます。
出自や地位ではなく祖国への奉仕を基準とし、貴賎や財産を基準にしていません。
まさしく「死の民主化」であり、「国民化」です。


このような崇拝は第一次世界大戦の無名戦士の追悼にあらわれています。
戦死者は民族の記憶に長く残り永続性を保つのです。
戦死者を「英霊」と称えて靖国神社に祀った日本も同じでした。
国のために命を捧げた「英霊」は日本人を団結させるための精神装置だったのです


偶然に左右され、限りもある生に不安を覚える人間は、不滅で絶対的な存在につながりたがります。 
民族主義には民族の永続的な生という観念があります。
死者とまだ生まれていない子孫を結びつけ死者を民族の生の中に復活させます。
「民族とは遠い過去から続く運命共同体」と信じる民族主義は、祖国のために死んだ者を祀ることで永続性を再確認します。

戦死者を「英霊」とよび彼らの献身と犠牲を「顕彰」する瞬間、死は民族の永遠の生に溶け込むのです。


21世紀になると犠牲者の範囲はさらに広がります。
国のため民族のため勇敢に戦った兵士だけでなく民間人の犠牲者にも目が向けられます。
たとえばナチによるホロコーストの犠牲になったユダヤ人。
韓国では太平洋戦争に従軍した朝鮮人の軍人・軍属、徴用工、挺身隊、慰安婦などすべてが日本帝国の「強制動員」犠牲者という位置づけになりました。
彼らが復権した理由は二つあります。
ホロコーストの悲劇が国際的に認められ、国境を越えて犠牲者の道徳的、実存的な正当性が認められたことと政治的な民主化が人権意識を高め脇に追いやられていた犠牲者を思いださせたのです。

そして彼らの復権が犠牲者意識を政治的な道具にすることを促し、犠牲者意識ナショナリズムを誕生させたのです。

殉教は死の讃美ですが、日々の闘争という観点からは生きるのは死ぬことよりも大変です。華々しく戦死するよりゲットーの悲惨な日常を生き抜くことが抵抗であり犠牲となります。
英雄主義的ナショナリズムにかわって登場した犠牲者意識ナショナリズムははるかに複雑となります。
英雄的に華々しく散った者ではなく、非業の死を遂げた者や卑しく生き残った者こそ高貴な存在、他を超越するシンボルの地位へ上げなくてはならないからです。


現在このような犠牲者意識ナショナリズムは国境を越えてグローバルに広がっていき、加害者と被害者・強者と弱者の歴史的立場をひっくりかえすことさえあるのです。


執筆者、ゆこりん

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