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私がカチン💢とくる言葉。「嫌ならやめたらいいじゃん。」

みなさんは、日々過ごしていて、デリカシーないわーってことを思うときはありますか?

私は、
「嫌だったらやめたらいいやん」
と言われるときによく思います😾!(関西在住なので、やん)


例えば、あるサークルやグループに所属しようとするとき、私は断られる時があるのです。🥺

それは、私ができないことが多いからです。
私は障がい重度であるため、みんなの同じルールやマナーを共有できないことが多いからです。
また、ハード面でもバリアフリーでないところは多く、物理的に難しいこともありました。


そういった理由で断られたり、避けられたりすることもこれまで多々ありました。
悲しいです。
そしてそれを身内や仲間に相談してもこう言われるともっと傷つくのです。

嫌な気持ちになるならやめたらいいやん。
そんなとこにいても楽しくないやろ。



……え、そういう問題じゃない。

まず、私の身体を理由というかできないことを理由に判断が変わったり、グループに所属できないのは差別だと思います。


差別って理不尽なことであり、無くすべきものですよね?

なぜ無くすべきもののために、私が判断を変えないとダメなんですか?
なぜそれが良いとされているのでしょうか?


それこそ差別に屈していることだと思います。


よく質問されることがあります。
あなたは差別主義者でも仲良くしますか?と。

私の答えは

絶対にイエスです‼️


なぜ理不尽なもののために、私の感性や選択を妨げられないとならないのですか。

相手が差別するかしないかは、人付き合いに関しては関係ないです。
その上で、理不尽なことに対しては理不尽ですよと言います。
(なので、いつも向こうから離れていくのですが(笑))

相手が差別するかどうかで、仲良くしたいからどうかは決めません。
差別は無くて当然のものであり、そんな理不尽なもので判断を左右されたくないし、それを判断に入れてることこそが差別に屈しているのだと思います。


残念ながら真面目で良い人でも差別はするとよく言われていますが、逆に言うと差別主義者でも真面目で素敵な人は残念ながらいるのです😢


私は良いなと思う人と付き合いたいし、所属したいコミュニティに所属したいです。
「嫌ならやめたらいい」は寄り添ってるように見えて、理不尽さを温存させ認めてるだけだと思います。


差別は絶対に認めない!
認めないからそれで私の選択は変えない!💪



執筆者、ハイサイ・オ・ジサン

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