愛は犬へ(シロクマ文芸部)(短編小説)
『アイ、ハイヌヘ』
「何のメッセージだね、これは?」
「知らないわよ、これが何か関係あるの?」
「とりあえず遺言書保管所から届いたのだから、これは母様からの遺言に違いない、それにしても……」
三人の口調が揃う。
『愛は犬へ?』
夏の気配を帯びた6月の日差しを受けた戸口では4匹の犬がじゃれあっている。
少し古いが威厳のある螺旋階段をのぼっていけば、2階にも3階にも数匹ずつ犬がいた。
飼い主を失った複数の犬の将来を考える三人ではなかった。
目の前で徒に、遊び吠えまわっているこの馬鹿犬達が遺言書に関わっているのかと思うと、意味もなく落胆し失望した気持ちになった。
「アドン兄さん、小さい頃言ってたじゃない、俺はこの城みたいな家がほしいって、
遺産分配はこうしましょ、アドン兄さんとリュカでこの家と土地を分け合って、私は……」
齢50を迎えたであろう、顔に化粧がのらなくなってきた女性の話は遮られた。
「カミラ姉さんは、いつも何もしていない割に、その狡さが全うに通じると思っているよね、大体母様の体調が優れないって知らせを聞いても1回も顔を見せなかったじゃないか、僕は重要な会議を抜けてでも毎日のようにここへ通ったんだ」
「それで、リュカは看病する名目で傍にすり寄ってこういったんだよな、
母様、どうか遺産はボクに預けてください、彼らは仲たがいをしているので、話し合いが悲惨なものへとかわるでしょう、このボクなら公平に割り振れ、血を分けた兄弟で無用の争いが避けられます」
「それ本当なのアドン兄さん、リュカあんた最低ね、体が辛い母様の心まで揺さぶって利用しようなんて」
彼らは20数年の絶縁状態であり、出来ることなら永遠に顔も見たくないと思っていたが、皮肉なことに彼らは母の遺産目当てで、生まれ育った古城のような屋敷に再び集結した。
1848年以降、フランスも世界の煽りを受けるように奴隷制度を撤廃した。その際に奴隷も所有する個人の資産であるとし、奴隷と引き換えに莫大な資産を収め、その多くは100年以上経った現在でも資産家として名を連ねている。
彼ら3人の母は孤児だったが、子供に恵まれない資産家に引き取られ、一人娘として大事に育てられた。
そして未婚のまま一人で生涯を終えた。
母の家で遺産について口汚く口論している、不仲の兄弟たちもまた、孤児であった。
彼らの母が彼らを家族として迎えいれたときの幸福は形容しがたいものだったが、年月が彼らの遺伝的特徴を顕著にし、兄のアドンは薬物に依存し、姉のリュカは散財に傾き、弟のカミラはアルコール中毒になっていた。
彼らの母は本当に遺伝が作用した結果なのか疑っていたが、家に長年仕える執事のセバスチャンがそう言い張って聞かなかった。
執事の胸中はこうだ。
奥様は可能なかぎり、無限とも思われる愛を注いだ。
それなのに、彼らが奥様のいない隙に悪事に手を染め始めた不義理は、彼ら自身の問題である。
執事はトルコ製のダークグレーの煉瓦で組まれた暖炉の傍にたっている。
長身で燕尾服に身を包んでいるさまは、横の火かき棒にそっくりだ。
執事の表情は暗い月のない夜さながらに光を失い、出すべき言葉ももはや引き出しのなかへしまわれていた。
彼は、閉塞した心と決意を胸に、戸口を一瞥した。
月は陰っても、そこにはまだ星が出ている。
「セバス、この遺言書はどういう意味かね」
アドンは切れかかった薬から放たれる強迫観念の類を表には出さないよう、表情を殺した口調で言った。
「そうよ、あなたが最後母様を看取ったのでしょう?ほかに何かいってなかった?あたくしの名前とか、ほら」
カミラは黒い手袋をしたまま、自分の指よりも太いルビーの宝石を撫でた。
歩くたびに漆黒のドレスを踏みかけて、遺産でもっとましで豪華に見えるドレスを手にすることばかり考えている。
「愛は犬へって、犬を引き取った人間に遺産をくれるってことかい?」
リュカは半分ほど減っている酒瓶を手にし、浅い呼吸をする振り子みたいにゆらゆらと動かしている。
執事は首を横に振った。
決意は固かった。
この家の持ち主とは長い歳月共に過ごした。
彼らの母は疲弊した秋茜をそっと休ませる宿り草のように、一つの完全な自然として彼らを愛していた。
執事は間違いなくそのことを認めている。
執事は幼い頃から彼らの悪行を見ていた。
出過ぎた真似だと思い、箴言せずに野放しにした自分にも責任があるのだと、濃くなった自分の目元の皺をみて思った。
「遺産の所有権を持つものは、あなた方だけではございません、あなた方が今何を考え、どうされるべきか、今一度お考え下さい」
酔いが回ってきたリュカが面白がって反論した。
「そうだとも、そうだとも、犬がいるものな、実に古臭い執事のジョークだ」
珍しく二人の兄妹もリュカに同意した。
各々、我が物顔で壁にかかった絵画の値打ちや、年代物のソファの価値などに思いを巡らせている。
家主が生前、彼らに最後のチャンスをあげてほしいと執事のセバスチャンに頼み、有能な執事はそのチャンスに気づく彼らではないことを見抜いたまま頷いた。
もしも、我が子供たちの誰かが私の死を嘆き、心のなかの愛が一つでも思い出されれば、そしてその愛の行き先が自分たちの分身に行くようであれば、遺産はその子にあげて。そうでなければセバス、わかるわね?
セバスチャンは諦めて白状した。
「実のところ、遺産はもうすでにあなた方のものではございません」
三人が間の抜けた表情を浮かべた。
執事が指をさす方は戸口だった。
戸口にはじゃれた4匹のかたまりが1つのようになっていて、両側は縦に1メートルはありそうな、ブラウンの格子付き窓ガラス。代り映えのない西日。
溶けだした西日と同じく、かたまりのように見えた犬たちがほぐれていく。
3匹が離れ、1匹の大きな白い犬と1人の少年が姿を現した。
「ハイヌ……」
誰かが口を開いた。
ハイヌは5年前の夏の嵐の夜に捨てられていた。
第一発見者は屋敷の見回りをしていたセバスチャンで、昼間に行った補修作業の具合を確認していると、間断なく野良犬が吠え続けていることに気づいた。
セバスチャンは嵐の夜に隠れもせずにこれだけ吠えているのは珍しいと思い、けたたましい鳴声の方に赴いた。
そこでハイヌを見つけたのだ。
空が加減のない光で満たされ、腹に響く雷鳴を感じ、雨が紫色にみえた。
戦前に植えられ今や立派になった木の下に、泥で汚れた白い犬と人間の赤子が捨ててあった。
犬は愛情深く守るように赤子を包んでいた。
それから家主に知らされ、家主は赤子を養子として迎え、犬を家族として迎え、その旨を綴った手紙を3人に送った。
家主は自分の命が誰かの青春よりも長くないことを嘆き、誰かに託そうと思い頭を抱えた。
そして3人の兄弟に手紙を送り続けた。
一通も返信はなかった。読んでいるのかさえ怪しかった。
それでも母は待った。深い死の床に近づきつつあることを知りながらも、
彼ら3人を愛していた愚かな母は待った。
犬達のことはセバスチャンに頼んだ。
家主と長い歳月を共にするうちに、セバスチャンと犬たちの間に芽生えたものがあり、それは固く長い友情のような感情に近かった。
セバスチャンから家主に申し出たのだ。
もちろん忠誠心の強い執事セバスチャンは、ハイヌのことも承っていた。
ただ、それはある条件が満たされない時のための保険だった。
彼らの母は、同じような内容の手紙を何度も送った。
「愛をもってハイヌの面倒をみてやってください、私はそう長くないから、そしてハイヌを守ってくれているアイという犬も一緒に……彼らは二つで一つなのです、私たちが家族であることに対して疑いの余地などないように、アイもハイヌも家族です、アイが少しお兄さんです、とてもしっかりした子です、ハイヌは優しさに満ち溢れた星のような子です、どうかよろしくお願いします」
「ハイヌ坊ちゃま、アイの首輪の内側をご確認くださいませ」
ハイヌと呼ばれた少年の眼差しは、セバスチャンが見た星の輝きで満ちていた。無音の宇宙空間のなかで、ゆったりと広がり続けながらも我々に関与せず、穏やかな調べを奏でる始まりの根源がそこにあった。
少年少女と呼ばれる僅かな間にしか宿せない奇跡の光芒だった。
ハイヌは言われた通りにアイの首輪の内側に手を伸ばした。
アイはハイヌがそうすることを当然の権利として受け止めた。
時は彼らの間にしか流れていなかった。
黄金の光に抱きかかえられ、緩慢な動作で手紙を取り出し、
開いた。
『アイ、ハイヌへ……』
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