Part 1: 国際バカロレア教育が日本に必要な本当の理由
少し前の記事で、グローバル人材の育成のために、日本の大学プログラムは制度として機能していない、と書いた。そしてそれを変えるためには、人ではなく、制度を変えるべきだとも書いた。
このことは、僕が言うまでもなく、少し国際経験のある人ならば、多くの人がすでに感じていることだと思う。もちろん、日本の教育の中枢である文部科学省でも、すでにこのことについて議論されている。その中で、グローバル人材を育てるための有力なプログラムのひとつとして、文科省が推進しているのが、国際バカロレア(International Baccalaureate : 以下IB)だ。
文科省がIBを推進しているのは、もともと経済界からの要望があったからだ。グローバル企業で活躍する人材にはIBプログラム出身者が多いことが指摘されていて、日本でグローバル人材を育てるために、IBを推進すべきだという意見が企業側から出されたのがきっかけだ。
実は僕の子供2人は、マレーシアのIBスクールに通っている。娘は中学1年生、息子は小学4年生だ。だからIBスクールの良さも悪さも、ある程度知っているつもりだ。
この稿では、親としての僕の実体験を含めて、日本にIBがグローバル人材の育成に必要かどうかを書いてみたい。結論から先に言うと、IBは日本の教育に必要だと思う。だが、僕が調べた限りでは、IB教育がなぜグローバル人材を育てられるのか、日本の文科省も経済界も大学も、正確には理解していないように思える。文科省のページをはじめとして、IB教育の最も重要な部分がどこにも書かれていないからだ。だからここに書く。
その前にまず、IB教育とは何かをよく知らない人もいると思うので、その解説からはじめよう。
文部科学省のWebサイトには以下のように説明されている。
「世界の複雑さを理解して、そのことに対処できる生徒を育成し、生徒に対し、未来へ責任ある行動をとるための態度とスキルを身に付けさせるとともに、国際的に通用する大学入学資格(国際バカロレア資格)を与え、大学進学へのルートを確保することを目的として…」
平たく言えば、「勉強だけでなく、人間としても立派に育つように、しかも世界中のどこに行っても立派になれるようなプログラム」である。でも、こんなことは、日本でも言っている。「全人教育」なんて言葉がそうだ。
問題は、そうなるためにどんな教育をするかだ。IBの場合、そのためには、以下の10の「IB学習者像」を掲げている。
①探究する人
②知識のある人
③考える人
④コミュニケーションができる人
⑤信念をもつ人
⑥心を開く人
⑦思いやりのある人
⑧挑戦する人
⑨バランスのとれた人
⑩振り返りができる人
読んでどう思うだろうか。なるほどね。とは思うが、目新しいわけではないと感じるのではないだろうか。確かにどれも望ましい資質ばかりだが、日本の学校だって似たような目標を掲げているところはたくさんあるだろう。
つまり、ここまでの概要を知っても、IB教育の何が優れているのかはあまりピンと来ないと思う。IBが評価されているならば、日本の教育ではやっていない特長が実践されているはずだが、僕の知る限りそれをはっきり書いているものはない。
僕が思うに、その特長は3つある。以下に述べる。
1:求められるアウトプットの質が違う
日本の教育でのゴールとなるアウトプットは、試験(特に大学入試)での正解である。テストで尋ねられた問題に、正しく答えられるかですべてが決まる。そこで測定されるのは、「知識を正確に理解し、それを的確に表現できるか」である。数学であれ、国語であれ、英語であれ、すべての大学入試はそれを測定している。
だが、IBではゴールが違う。それ以上を求める。IBでのアウトプットは、もちろん試験の解答も求められるが、それを使って他者に対してプレゼンをしたり、新しいアイディアを披露したりすることに重きが置かれる。知識を正確にアウトプットするだけではない、その後の再構成やクリエイティビティを重視する。
実はそれこそが、実社会で求められることだろう。実社会では、自分の考えを効果的に表現することが求められる、それは、プレゼンの場合もあれば、文書の場合もあるし、作品やコンピュータプログラムの場合もある。いずれにせよ、知識そのものではなく「知識の応用」だ。「勉強ができるだけで仕事ができない人」とは、IBで求められるような類のアウトプットを出せない人だ。
僕の娘が小学6年の最後にやった「卒業試験」は、環境問題についてのプレゼンテーションだった。そのために、先生の指導のもと、娘とグループメイトは数か月かけて準備をした。まず環境問題とは何かを学び、知識を得る。
だがそこからが本番だ。それを基に、自分たちで疑問を出し合い、疑問に答えるためのリサーチを行う。例えば「マレーシアでは人々は環境問題についてどう思っているか」という疑問を持ったら、身近な人にインタビューをし、それをレコーディングし、編集ソフトを使って見やすいように編集し、プレゼンテーションの中で参考資料として流せるようにビデオストリーミングを準備する。さらに、グーグルフォームを自分たちで編集し、アンケートを作り、親や親の知り合いに回答してもらうようお願いしてデータを集め、それを分析し、グラフを作りプレゼンテーションファイルに組み込む。そのうえで、1時間のプレゼンテーションのプログラムと構成を話し合い、発表の役割分担を決め、リハーサルを行う。
しかも、その時はコロナ禍でのリモートプレゼンだったので、学校のテクニカルディレクターと連絡を取り合いながら、Webinarで行う準備をすすめた。通信上の問題が生じた時のプランBも考えておいた。Zoomをはじめとする各種ソフトウエアの使い方や共有クラウドストレージの活用の仕方なども知らなくてはならない。
さらにその発表は、クラスメートだけではなく、父兄、他学年の学生、その他に広く告知され、基本的には誰でも閲覧できる。パブリックに向けて発表することが求められるのだ。当然ながらパブリックに向けて何を言うべきか、アジェンダがはっきりしていなくてはならない。
僕は娘が準備するのを見ていたが、大人から見ても、ものすごい仕事量だった。卒業試験直前の1か月ほどは、娘は毎日夜11時過ぎまで準備をしていた。午後10時過ぎに先生とチャットやハングアウトで会議をすることもしょっちゅうだった。
その結果のパフォーマンスは見事なものだった。先生の指導があったとはいえ、とても小学6年生とは思えないレベルだった。僕が教えていた京都大学の卒論発表会のレベルくらいの高さだった。
2:グループでのパフォーマンスを求められる
IBでは個人評価もするが、グループワークがとても多い。上記の「卒業試験」のプレゼンもグループワークだ。
大抵の場合、学生にとってそれはストレスだ。自分だけができてもグループ全体の結果が思わしくないことはよくある。その時、自分よりもパフォーマンスの悪い他のメンバーに敵対してもうまくいくはずがない。必要なのは、遅れているメンバーがいたら助け、サポートし、得意な部分で貢献できるように役割を分担し、目的が達成されるようにアレンジしなくてはならない。優秀な学生には自然とリーダーシップが求められるし、皆が組織として機能するにはどうすればいいかを考えざるを得ない状況に追い込まれる。IB学習者であろうとするならば、皆に勝手にやらせておいて自分は成果だけをいただく「フリーライダー」になることは許されない。だから、皆真剣に「自分がグループのためにできる貢献はなにか、どんな役割を果たすべきか」を考えなくてはならない。
個人の仕事ができるものは、リーダーとして他のメンバーをサポートすることが求められるし、その部分が成績にも反映される。それだけではない。グループとして先に課題を終えた者たちは、まだ作業している別グループにアドバイスを与えたり、サポートするように頼まれることもある。それを引き受けてこそIB学習者なのである。
今僕が勤めているモナッシュ大学を含め、西欧圏の大学では、グループワークを課することが多い。日本でもそれはあると思うが、IBは小学生からそれを経験させる。チームマネジメントのスキルを学ぶ経験年数が段違いなのだ。
3:徹底したクリティカルシンキングとコミュニケーションが求められる
上記のアウトプットとグループワークをするためには、「皆で話し合って決める」という作業を積み重ねなくてはならない。自分たちのやるべきことは何か、いままでやってきたことは正しかったのか、を常に確認しあう。その過程でクリティカルシンキングの基礎が磨かれる。僕も経験したことだが、良いクリティカルシンキングをするには、自分ひとりでは限界がある。他の人とのディスカッションを通じたフィードバックが必要だ。グループワークを通して、学生は自然とクリティカルシンキングを身に着ける。
そして、議論をするためには、各自がやっていること、その背景にある考えを共有しなくてはならない。仕事でいえば「報・連・相」だ。そのためのコミュニケーション力が鍛えられる。
日本の企業が学生に求める資質でいつも挙げられるのが「コミュニケーション力」だ。だがこの能力について誤解している人が多いのではないかと思う。それは、上記のようにクリティカルシンキングを手助けし、グループワークを推進するために必要な情報を共有する力のことである。誰とでも仲良くなれる能力や、人当たりの良さなどではない。
このように、企業が求めているにも関わらず、日本の教育ではカバーできない能力を伸ばすのがIB教育だと僕は思っている。
以上が僕が感じる、IB教育の最も重要な点だ。
しかし、これらはIBの特長のうち、特に日本のこれまでの教育に欠けているものに焦点を当てただけで、IB教育の特長のすべてではない。僕の子供たちが行っている他の実践例を書いてみたい。
1:学校での行動を細かくチェック。小学低学年の子供たちは、上記の学習者像などよくわかっていない。それを「体で理解させる」ための訓練を行う。例えば、筆箱を忘れた子に、鉛筆と消しゴムを貸してあげない子がいた場合に、先生は「これは、”思いやりのある人”の行動ですか?」と問いかける。やり始めた課題に集中しない子には「これは”考える人”ですか?」と問いかける。自分の行動がIB学習者像にマッチしているかどうか、つねにモニターするように仕向ける。これを継続することによって、子供たちは自然とIB学習者たる行動を身に着ける。
例えば今小学4年の息子のクラスでは、IB学習者10項目が机の上に貼り付けてある。先生は、常に子供たちにそれを見せ、自分の行動がそれらに当てはまっているかを指導する。ただし、どのようにIB学習者としての自覚を持たせるかのやり方は、各先生にまかされており、上記は一例に過ぎない。しかし、四半期ごとの成績のフィードバックの際には、必ずIB学習者として個々の学生の優れているところ、改善すべきところが指摘される。
2:課題の内容に反映。IB学習者となるために、課題が工夫されている。小学校低学年からすでにグループ単位での課題が多く、グループ内で問題を共有し、コミュニケーションをとり、役割を決め、進捗状況をお互いにチェックしながら進める課題が多い。そのため、自然とチームビルディングやコミュニケーションの方法が小さいころから身に着く。
特にマレーシアでは、マザーランゲージが違っている子供たちが多い。マレー系は家でマレー語を話し、学校で英語を話す。中華系は家では北京語や広東語を話し、学校で英語を話す。我が家の子供たちは、家で日本語を話し、学校で英語を話す。つまり、英語を第2言語とする子がとても多く、その不慣れな言語でコミュニケーションをとらなくてはならないのだ。
子供たちは、不完全な英語力を使って、どうやったらコミュニケーションできるかを模索しながらやらなくてはならない。それがコミュニケーション力と論理的思考を鍛える。
この他にも面白い例がある。娘が小学1年の時に出された宿題を見て僕は驚いた。詳しくは当時連載していたダイヤモンドオンラインに載せているので見てもらいたい。この時は、この宿題の特長が、マレーシアの文化的なものなのか、IBが故なのかが理解できていなかったが、今はIBの特長だと理解している。
3:評価項目に反映。 例えば体育の評価項目に、「リーダーとして皆を鼓舞したか」「チーム競技のとき、うまくできない子を助けたり、励ましたりしたか」といった点がある。ただ、個人として科目ができるかだけではなく、チームを引っ張ることができるか、メンバーのサポートができるかなども評価基準となる。各科目での個人的な成績よりも、どれだけ理想的なIB学習者に近づけるかという点がより重要視される。つまりIB学習者になるためのインセンティブも組み込まれている。
そして、サポートされた子はそのことによって成績が伸びるため、クラス全体の成績アップにもつながる。人よりも優秀な子は、皆に教え、導くリーダーとなることが要求されるのだ。そして運動でリーダーになる子、楽器演奏でリーダーになる子、勉強でリーダーになる子はそれぞれ違う。違った側面で常に「できる子が皆を導く」ことを推奨するようになっている。
つまり、教育のゴールは、教える内容をどれだけ理解できるか、あるいはそれを応用できるか、というよりは、理想のIB学習者像にどれだけ近づけるか、にある。それができれば、IBスクールを卒業して大学に入ってからも、就職してからも、グローバル人材として活躍できるからだ。
ここまでわかれば、勘の良い方なら、すぐに理解できるだろう。日本の高等教育は矛盾を抱えている。日本では理想のIB学習者像に近づいても、大学受験には有利にはならない。むしろ詰込み型受験勉強に重きを置かないため、不利にさえなる。
このことは文科省も承知している。だから、IB修了者の入学を優遇する大学を増やすように働きかけている。現時点で、官僚としてやれることとしては、それは最良策だと僕も思う。
だが長期的には、IB学習者のようなグローバル人材が、大学教育の中で高いパフォーマンスを発揮し、それが評価されるような制度を、大学教育プログラムの中に組み込まなければ、付け焼刃の措置になってしまうだろう。僕はそのことを危惧している。
つまり、冒頭に述べたように、大学教育の制度変革が必要となるのだ。その点について稿を改めて述べたい。
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