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Part 3:国際バカロレア教育が日本に必要な本当の理由

以前書いたように、経済界からの要望を受け、文部科学省は国際バカロレア(以下IB)教育の普及を推進している。

その推進とは基本的に

1:IB教育校(小学校―高校)を増やすこと

2:IB修了者が優遇される国内大学を増やすこと

の2つだ。だが、それでいいのだろうか。僕はダメだと思う。もっと根本的なところから制度を変えていかなくてはならない。

僕は文科省がダメだといっているわけではない。官僚としてできることは、やっていると思う。そして彼らもこれが根本的な推進策ではないことを承知済みなのではないかと推測している。

ダメなのはむしろ、大学教育にあるのだと思っている。それはつまりこういうことだ。

IB修了者が高校-大学入学までうまく進んだとしても、彼らの学んだ成果が大学での成績に反映される、あるいは大学での教育が彼らのグローバル人材としての質を高めるようなものでなければ、意味がない。

そして、今日本企業が新卒者をリクルートする際、大学名か、大学での成績か、どちらを重要視するかと言えば、わかりきっている。

結局、文科省の推進は「IB終了者を日本の有名大学に入学させやすくさせる」ところで終わっているのだ

IBプログラムが行われているのは日本だけではない。世界中にある。そこを修了した者は、世界の一流大学で、ますますグローバル人材として磨かれるような教育を受ける。つまり、IB修了者の入学したその大学が、それまで学んだことをさらに活かせるような教育をしなければ、世界的な競争に負けてしまう。

では日本の大学はどうするべきか。

大学入試と大学の教育内容を同時に変えなければならない。これまで入試制度の見直しは何度もされてきたし、大学の法人化を中心に改革も行われてきたが、日本の大学の世界的な競争力は上がっているとは言い難い。

僕が思うにその原因は、入試と教育内容(正確に言えば卒業要件)の同時改革が必要なのに、それをやらずに、個々を五月雨式にやってきたからだ。

入試は一発勝負ではなく、共通試験を年に2,3回やって、その成績で入学できる学校を決めればいい。大学はコアとなる必須履修科目の教育を欧米大学並にがっちりやる。東大京大早稲田慶応一橋東工大クラスは全部英語でやったっていい。そしてそれについていけない者は、留年、落第、退学でもいい。退学しても、共通試験の成績が有効なうちは、もうちょっとレベルが下の大学に入学できるようにする。

僕がUCLAにいたころ、UCLAの入学者全体のうち、最初の学期で40%がドロップアウトしていた。これくらいの厳しさと競争が必要となる。そこを生き残り、さらに1年間生き残った学生はさすがに優秀だったし、トップクラスは世界の中でも本当にトップクラスだ。僕が持っていた授業の学生には、トップ5に残るくらい成績優秀だが、プロバスケットボールのロサンゼルス・レイカーズのチアガールチームに入っている才色兼備の女の子もいて、当時いたコービー・ブライアントやシャキ―ル・オニールと撮った写真なども見せてくれた。その子は社会福祉学を専門にしていて、スポーツ界にあこがれる貧困層の子供たちへの教育に興味があるため、スポーツアスリートの世界を子供たちの目標とさせて、そのための人間教育プログラムを将来立ち上げたいと考えていたそうだ。チアリ―ディングをやっているのもスポーツビジネスを身近に知り、コネクションをつくるためだと言っていた。

つまり成績だけでなく、すでに社会の中で自分の生きる道を見つけたり、多くの活動を行っている学生がたくさんいた。彼らは大学で得た知識や経験をすぐに社会と結び付け、行動に移していた。

数年後、日本に戻ってきた僕は、めちゃくちゃ驚いた。京大に赴任したが、まず驚いたのは1,2回生の頭の良さだ。UCLAの新入生なんぞ比ではない頭の良さだった。僕の赴任した当時、京大の総合人間学部は、偏差値では東大を抜いて全国トップだったらしいので、日本で最も頭のいい学生がいたことになる。それはそれは素晴らしかった。

そしてもっと驚いたのが、4年間京大で過ごした学生のレベルの低さだ。UCLAの4年生の方が、平均的にはレベルが高いと思った。もちろんトップクラスはすごい。それは京大を含む世界の一流大学ではどこも変わりない。でも重要なのは、その一方で、京大の4年間で成長していない学生が山ほどいたということだ。そしてそれは学生のせいではない。京大を含む日本の大学のシステム全体の問題だ。

その感想を率直に、当時同僚だった、世界的に有名な心理学の某先生に言ったところ

「ホント、入ってくるときはハーバード、スタンフォードレベルなんだけど、出ていくときにはボンクラになっていくよなあ」

と同意してくれた。その先生は、その後アメリカの大学に移ってしまった。

折角IB学習者としての訓練を受けても、大学でそれを活かすチャンスがなければ、そしてそれを活かすことが成績に反映されなければ意味がない。IB学習者の資質は企業で働く場合に役立つと経済界からの意見があるならば、大学の授業を乗り切るためにもその資質を役立てるようにプログラムを組まねばならないはずだ。そして僕はそれは大学にとってもよい効果を生むと思っている。

学部だけではない、世界で活躍できるだろう素晴らしい素質を持った大学院生が、無能な教授に潰される様を僕は日本で何度も見てきている。日本では、大学院の指導は、ほぼ先生に一任されていることが多い。有能な先生に付いた学生はラッキーで、ひどい先生に付いた学生は苦労する。これは本当にただの運で決まる。

もちろん海外でもその側面はある。だが、例えば今僕が勤めるモナッシュ大学では、学生が指導教員と問題があれば、すぐに担当教員と事務局が動き、ヒアリングをしてコンプライアンス違反がないかをチェックし、必要ならば指導教員を変えるなどの措置を行うし、その最終権限を学生に与えている。

それ以前に、指導教員はメインの他に最低1人のサブ指導教員を置くことになっており、メインの指導教員とトラブルがあっても、すぐにサブ指導教員に報告することができる。

大学院生にとって、指導教員とのトラブルはその後の学者人生をも左右する重大事項だ。コンプライアンスに引っかかるレベルならばもう取り返しがつかない状態なので、その前の段階から指導教員と学生との関係が健全で良好かどうかがチェックされていなくてはならない。大抵の場合、日本の大学では、問題が大事にならない限り動かない。それが学生の将来に影を落とすケースが多いと思う。

IB学習者の訓練を受けていることは、こういう事態に対処するときにも役に立つ。学生から見て、指導教員とのコミュニケーションの何が問題か、なぜ大学院での研究が進まないのか。それを分析する力はIB教育で養われる。だが、その問題を解決するためのサポートシステムを大学側が持っていなければ、IB学習者とて何もできない。

平たく言えば、海外の一流大学では、IB学習者の資質をさらに伸ばし、その資質を使ってさらに高度なアウトプットを出す術を学べる。日本の大学もその水準に並ばねば、本当の意味で日本でのIB教育の普及は望めないだろう。

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