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髙樹のぶ子の「ほとほと」に、受容でいいのだと教わった。

📚
「ほとほと」
髙樹のぶ子

「楽しんでくださいね」

そう優しく言われて紹介された本を手に取った。

「楽しんでください」

と自分から人に本を紹介した事があっただろうか。

「たぶん面白いと思うよ。面白くなかったらごめん」

「本当に読めるかわからないけど」

「好みに合うかわからないけど一応」

私が人に本を紹介する時に発してる台詞は主にこれのような気がする。

活字にすると理解出来るが、周りに読書好きがいない人生だったのがありありと伝わる。どこかで人を信用せずにそして、相手の答えに自分が傷付かないように必死に防御している。

自分が好きな物は自分の心の内を見せるようなものであり、否定はそのまま自分が否定されるような気がするからだ。まして本を読むという行為は時間を奪う。

だから長年の私の積み重ねから出ている言葉なので別に否定はしたくない。やはり、どこかで怖いのだ。

だけど今回の「楽しんでくださいね」は言われてとても心が嬉しくなった。人がどう思うかではなくて、その本に対してちゃんと向き合ってくださいと言われた気がした。それは読むことを前提としている言葉で信頼されている気にもなる。

そもそも私が本の紹介を頼む場合、その人に好意があるので、その人の内面を知りたいと本の紹介をお願いする時がある。

それは自分が聞かれたら怖いのに、人にはすんなり聞けるという随分と厚かましいものだ。

そして、それは男女に限らずだ。

興味がある人の好きな本を読むことは、その人の一端を知る事にもなる。少なからずその文脈や世界観、思想にどこか影響されて存在していると考えるからだ。

そう考えると会わずとも自分が創る別の世界では繋がりがあるような気もするからだ。

そしてそれが、今後の自分にもたらす文学的表現の世界が広がり、新しい自分を考えられる。

その繰り返しが好きだ。
まだまだのんびり行きたい。

相手が女性の場合は少なからず純然たる下心が存在するのも否定出来ない。これはどうしようもないものだ。そして、それを止める術を私は知りたくもない。

コニシ木ノ子著「純然たる○○」シリーズより抜粋

今回の「楽しんでくださいね」は、とてもページを捲るのが楽しくなった。単純かも知れないが久しぶりに物語に邪念が入らずに素直に落とし込めた。

いつの間にか普段の生活で物語の主人公になっていても自分は気付かないものだ。

人の感情や気持ちが同じ方向を向いていてもお互いに完全に一致し最初から最後までが過ぎるようなことはない。

だけど人間は都合よく季節や物、植物や生き物に自分が思い出したい事のみを投影して物語を創りたくなる。そして何かを考える時にそこに宿る思念を掘り下げたくなる時がある。

相手からすると事実が事実ではなく違う一面もみせる。善いと思っていた事が悪であったりと。

これは、ご都合主義の私にも物凄く思い当たる。どんどん自分勝手な回答になっていってしまうものだ。

物語は死者とのやり取りや、日常や季節を感じる物や行事を通してかつて存在していたすれ違いや後悔を読ませてくれる。

そこに存在するのは、解決ではなく葛藤でもなく受け入れるということなのだと思う。

もう一度会いたい人が私にも何人もいて、何かにその人が宿っているとしたら、言いたいことは山ほどある。

でもそれはもしかしたら、自分勝手に変わってしまった思念かも知れないし、思い出なのかも知れない。

それはそれで、受け入れていいものだ。時と共に変化してもその人を思うということで何かに宿って自分に教えてくれているとしたら、大事なことはその何かに対して見逃さずその人を重ねて思うことだと思った。

そう思うと涙がこみ上げる物語も楽しくなった。

結論として、「楽しんでくださいね」は気付きを私に与えてくれた。過ぎた時間を戻せないがこれから過ぎる時間は自分で創れる。何かを感じるということに正面から心を開いてみようと思った。

本に対して自分が思うことは、どれも正解で創造の世界はどこにでも繋がることが出来る。それをどう表現するかも自由である。

私も少し人に心を開いて紹介してみようと思った。本にも人にも少しだけ解放しよう。

なんのはなしですか

願わくば、宿る宿は多く持ち、なるべく入り込み、そこで不払いで強制退去にならぬようにだけは心がけたい。きちんと返す。たまに多めに。これの繰り返しでいいと思う。






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