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「最良ではなかったかもしれない選択の結果として、いまここにいる」フリーランスジャーナリスト Raphael Rashid

<Profile>
ソウルを拠点とするフリーランスのジャーナリスト。英国ロンドン出身。外国人視点でみた韓国社会をテーマしたELLE Koreaの連載コラムのほか、NYT、Telegraphなど欧米メディアにも寄稿。2011年に語学留学のため渡韓。高麗大学国際大学院修士号(韓国学)取得。米系PR会社勤務を経て、2017年より現職。2021年10月に初の著書刊行予定。

今年(2021年)在韓歴が10年になる、イギリス出身のラファエル。父親はバングラディシュ出身、母親はフランス出身、幼稚園から高校までロンドンのフランス系インターナショナルスクールという、国際色豊かな環境で育った。

イギリスの地方大学に進学するものの、半年で退学。世界一周旅行ののち、東アジアの地域学で知られるロンドンの大学に入り直す。在学中、日本の地方大学への交換留学も経験した。

卒業後は韓国政府の奨学金制度により、ソウルに留学。韓国語を学んだのち、国際大学院に進み、韓国学の修士号を取得した。卒業後は米系PR会社勤務を経て、独立。現在はフリーランスジャーナリストとして活動し、来年秋には初の著書の出版を控えている。

国際大学院卒業後、大半の留学生が帰国するなか、現地就職を経て、フリーランスとして活躍しているラファエル。どうやっていまの場所にたどりついたのか。

(インタビューは英語で行いましたが、和訳して文章にしています。一部のみ原文のまま載せて、和訳を添えた箇所があります)

数学と物理漬けの高校時代、唯一の楽しみは夜間の日本語スクール

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(2020年12月撮影。生まれ育ったロンドンの街並み。例年はクリスマスのショッピングで賑わう通りも、外出制限のため閑散としている)

ー 大学では日本、大学院では韓国に留学をしています。まず、日本に興味を抱いたきっかけを教えてもらえますか?

ロンドンは多国籍な都市です。僕自身バングラディシュとフランスのミックスだし、通っていたフレンチスクールでは多様なバックグランドを持っているのが当たり前で、異文化に接することがとても自然な環境でした。

日本文化にも、幼い頃から触れる機会がありました。母から教えてもらった折り紙に夢中になったり、母に連れられて毎週のように日本大使館に邦画を観に通っていた時期があったり。漠然とした興味はずっとありました。

高校のときにはじめて日本語を学びました。

ー どうして日本語を学ぼうと思ったのでしょうか?

高校では物理と数学漬けだったんですが、あまりにつまらなくて、なにか全然ちがうことをしたくて。

たまたま自宅から目と鼻の先にある夜間のカルチャースクールを見つけて、深く考えずに日本語クラスに申し込みました。物理と数学からできるだけ離れたい一心でした(笑)。

ー なぜ高校では物理と数学を?

イギリスの教育制度では、大学に進学するためにはA Levels(*)という試験をパスする必要があり、高校に入学する時点で100前後あるなかから、受ける科目を選びます。

(*A Levels:イギリスの大学は通常3年制で、入学直後から専門的な内容を学ぶ。日本の大学の一般教養過程にあたる内容は高校在籍時に学び、試験をパスしているする必要性がある。この制度をA Levelsと呼ぶ)

15歳だった当時、将来自分がなにをしたいかなんて、まったくわかりませんでした。今だってわからないのに(笑)。だから、すごく単純に、高い収入を得るためには自分が知る中で1番有名な企業に入ることを目指せばいいと考えました。それがマイクロソフト社だったので、大学でコンピューターサイエンスを学んでエンジニアになろうと。

ー もともとコンピューター関係が好きだったのではなく、将来を考えての選択だったのですね。

はい。でも、勉強していても全然興味を持てなくて、苦痛でした。日本語を学んでいる時間が唯一の楽しみだといってもいいくらい。昼間は数学と物理をつめこみつつ、夜は日本語を学びながら、日本への旅行を夢見ていました。

“It felt like there was much more in this world other than math and physics”
(この世界には、数学や物理以上のことがある、と思いました)

大学進学が決まったあと、念願の日本旅行を実現しました。そんなに遠い国に一人旅をするのははじめてでしたね。東京や京都にももちろん行きましたが、長野にある農家で1ヶ月半ホームステイしたのが1番の思い出です。

“Why continue if you don’t like it?” 大学を半年で退学し、方向転換

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(北朝鮮旅行中の一枚。白頭山にて)

ー 大学でコンピューターサイエンスを学び始めたものの、半年で退学しています。やはり興味を持てずに進路変更せざるを得なかったのでしょうか?

コンピューターサイエンスにどうしても面白みを見出せなかったし、進学した地方大学に全然馴染めなくて。

ー その大学を選んだのはどうしてだったのでしょうか?

僕が通っていた高校の真向かいには、コンピューターサイエンスで世界トップランクの大学がありました。でも、あえて地方の大学を選びました。幼稚園から高校まで同じ校舎に通っていて、できるだけ遠くに行きたくて。

ー でも、期待していたような環境ではなかった?

そうですね。その大学は僕が馴染んでいた環境と180度異なりました。

ロンドンでは多国籍な文化が混じり合っているのが当たり前でした。でもその大学には、ほとんどホワイトのイギリス人学生しかいなかった。

海外どころかロンドンにも行ったことがないひとたちが大半で、異文化への理解や許容性、好奇心といったものが皆無でした。まるで、自分が外国人になったかのような疎外感を感じました。

“I couldn’t relate with them”
(彼らとどう付き合っていけばいいか、全然わからなかった)

そんな環境が耐えがたくて、長期休暇にまた一人旅に出ました。行き先には韓国を選びました。

ー ここで韓国が出てくるのですね。韓国にも以前から関心があったのでしょうか?

いえ、それまで僕は朝鮮半島のことはほとんどなにも知りませんでした。でも、大学で気軽に言葉を交わせた数少ないクラスメートのひとりがカザフスタン出身の高麗人(*)で、自分のルーツや高麗人、朝鮮半島の話をよくしてくれてました。

(*高麗人:中央アジアに住む、朝鮮にルーツを持つひとたちの呼称。19世紀以降、混乱期の朝鮮半島を離れ(追われ)、各地に移り住み、そのまま現地に根づいた(戻れなくなった)という歴史的経緯がある)

大学に嫌気がさしていたので、できるだけ遠くに脱出したくて。全然知らないところに行ってみたかった。それで、韓国が頭に浮かびました。クラスメートの話を聞いて興味を持ったのもあるし、韓国料理がすごく美味しいのも知っていたし(笑)。ニュースでも北朝鮮のことはよく耳にするのに韓国のことはまったく報じられていなかったから、どんな国なのか自分で直接みてみたくて。

バックパックを背負い、3週間かけて韓国を周りました。

旅行そのものも楽しかったのですが、イギリスに戻るフライトで面白い出会いがありました。たまたま隣の席に座った同年代の女性で、気が合ってフライト中ずっと話をしていたのですが、こんなやりとりがありました。

彼女:“What do you study?”
僕 :“Computing”
彼女:“You like it?”
僕 :“No, I don’t like it”
彼女:“Eum, why continue if you don’t like it? So, what do you like?”
僕 :“I’m really interested in East Asia at this moment”
彼女:“Then, why not do that?”

「なぜ好きでもないことをやってるの?」
「なぜ興味があることをやらないの?」

そんなことを聞かれたのは、はじめてでした。それまで、誰にもそんな言葉をかけられたことがなかった。ただの一度も。

すぐに気持ちを固め、ロンドンに着くと同時に、大学に退学意思を伝えるメールを送りました。その翌日、アジア地域学を学べるロンドンの大学に電話をして、入学申請を受けつけてもらえるか問い合わせをしました。

あいにくその時点ではもう春入学の締め切りを過ぎていたのですが、せっかくだからとバイトをしてお金を貯めて、世界一周旅行に出て、翌年その大学に入学しました。東アジアについて学ぶだから直接見ておかないといけないと感じて、その直前に北朝鮮にもいきました。

「とてもしんどかった」日本留学、大学卒業後はソウルへ

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(日本留学中の一枚。地元の小学生たちに世界を教える授業を)

ー ロンドンにある大学に入り直し、1年間の日本への留学もしています。そのときはどのような留学経験だったのでしょうか。

この大学では主専攻に日本、副専攻にコリア(韓国と北朝鮮)を選びましたが、プログラムに日本留学が組み込まれていました。東京の大学が圧倒的に人気でしたが、またここで地方を選びました。

僕にはそういう天邪鬼なところがあるのかもしれません(笑)。志望者が少ない地方だと奨学金が受けやすいし、日本にいってまでロンドンの大学の友達とつるみたくなかったし、寒い地方でスキーも温泉も存分に楽しめそうだし、というような理由からでした。

でも、正直にいってしまうと、その1年間にはあまりいい思い出がありません。

そこでの環境は、イギリスの地方大学とすこし似ていました。出会った日本の大学生たちはみなよくしてくれたけど、あまりにちがう環境で育ってきたからか、受けいれられている、という感覚を持てなかった。

飲み会があっても18時から2時間飲み放題プランで飲んで、20時にはみんなほろ酔いになって「じゃあね〜」と自宅に帰っちゃう。表面的な会話以上に発展することもなく、友達にはなれなかった。

冬の寒さも想像以上に厳しかった。外に出ようとすると防寒対策で完全防備して、うず高く積もった雪道を歩き、大学や遊び場がある中心地まで、30〜40分近くかけてバスを乗り継いていかないといけない。

とてもしんどかったです。

そんななか、留学中の友人を訪ねて遊びに行った、ソウルの印象は対照的でした。そのとき出会った韓国人の子たちはみんなのりがよくて、朝まで一緒に飲み明かしたりして。外国人の僕をとても自然に受け入れてくれるように感じました。

東京の大学にいっていたら日本でも似たような経験をしていたかもしれないし、当時の環境を楽しめなかったのには自分の幼さもあったんだろうな、といまは思いますけどね。

ー そのときの経験で、卒業後は韓国に留学しようと決めたのでしょうか?

卒業後の進路で悩んでいるとき、韓国政府の奨学金制度を見つけたのが直接のきっかけです。韓国語を1年間学び、国際大学院の修士課程に進むプログラムでした。卒業してやりたいことがわからなかったし、韓国に興味もあった。韓国で学びながら、将来を考える猶予ができると思いました。

北朝鮮に関心を持ち、さまざまな学外の活動に関わった院時代

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(はじめて訪れた北朝鮮からロンドンの家族に送ったポストカード)

ー 2011年に渡韓後、韓国語を学んだのち、国際大学院(*1)修士過程に入学し、韓国学を専攻します。院時代はどんな生活を送っていましたか?

当時は特に北朝鮮の分野に強い関心がありました。院での研究も進めつつ、学外の関連する活動にもより時間を割いていました。

「南北コリアを音楽を通じてつなげたい」という音楽家の手伝いをして、北京の協力者に会いに行ったり、スイス軍(*2)の協力を得たりして、DMZ(非武装地帯)でのコンサートを実現にこぎつけられたときは感無量でした。

当時から英語のメディアで報じられる朝鮮半島情報がかなり限られていることが不満だったので、友人とウェブメディアを立ち上げたりもしました。

延世大(*3)の北朝鮮出身の学生支援サークルにも入り、英語が苦手な学生の課題の手伝いやチェックをしたりしていました。

韓国の学生は熾烈な受験戦争を乗り越えるため、ものすごい勉強量をこなしてきていますし、なかでも延世大に入るような学生はとても優秀です。当時の延世大には北朝鮮出身の学生が優先的に入学できる枠がありましたが、まったく異なる環境で育ってきた彼らにとって、韓国の学生と同じように勉強するのはとても難しいことだと知りました。

修士論文も南北関係をテーマに書きましたが、今は北朝鮮についての記事は書いていません。院時代を通して北朝鮮のことを理解しようと努めましたが、結局僕はなにもわからないままだという気がするんです。

北朝鮮の専門家と称するひとたちは、いろいろなことを言いますよね。でも、なかには韓国語さえできないのに、断言するような物言いをするひともいる。僕はわからないことをわかったように論じることはしたくなかった。

サークルで出会った友人とはいまでも親しく付き合っています。ジャーナリストとしての関心分野のひとつに、韓国社会で偏見をもたれていたり、差別を受けているひとたちを書く、ということがあります。そういった立場のひとたちに共感を覚えるのも、彼らとの交流があったからしれません。

(*1 国際大学院:グローバル化政策の一環として1980年代後半〜90年代初頭に韓国の主要な大学に設立され、講義や論文執筆などすべてが英語で行われる)

(*2 スイス軍は中立国として、1953年以来朝鮮半島のDMZに部隊を配置している)

(*3 韓国の最高学府は各大学の頭文字をとってSKYと呼ばれている。S=ソウル大学、K=高麗大学、Y=延世大学で、それぞれ日本の東大、早稲田、慶応に相当するといわれてる)

30歳の誕生日に独立し、フリーランスのジャーナリストに

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(高麗大学キャンパスでの一枚)

ー 大学院卒業後、仕事を見つけられずに韓国を離れる留学生が多い中、米系PR会社に就職します。会社員時代の経験はどうとらえていますか?

韓国で英語教師以外の仕事を見つけるのは簡単なことではないので、ラッキーだったと思います。

ただ、米国企業といっても、ソウル支社は完全に韓国企業的な社風でした。とにかく「緊急」案件が多くて、深夜までの残業もしょっちゅうだったし、休日でもお構いなしに連絡が入り、業務がふってきました。あまりにきつくて、途中からは辞めることしか考えてませんでした(笑)。

でも会社を辞めても韓国に残るためには、ビザが必要でした。何度計算してもあと1ポイント足りなかったのだけど、30歳になれば1ポイント追加されることがわかりました(*)。

Literally I handed in my resignation on my 30th birthday.
(文字通り、30の誕生日に会社に辞表を出しました)

(*韓国のビザはポイント制で、TOPIKスコアや学歴などによって、取得ビザに必要なポイントを加算していく)

ー 韓国でフリーランスとして仕事をしていくことに不安はありませんでしたか?

なかったといえば嘘になりますが、全く見通しがないわけではありませんでした。

ひとつには、PR会社を辞めれば、フリーランスとして業務を請け負えるだろうと。というのも、会社員時代に僕自身がしょっちゅう外部のフリーランスに仕事を頼んでいたからなんです。とにかく緊急案件が頻繁に発生するので、期限に間に合わせなくてはいけないし、業務委託料は経費としてクライアントに請求するので、そこに関して社内のコスト意識も薄い。

上司に辞職の意を伝えると、案の定、その場ですぐにフリーランスとして一部の業務を請け負って欲しいと頼まれました。

もうひとつは、学生時代に友人と立ち上げたウェブメディアの仕事です。僕が離れたあとも、友人がメディアを運営しているのを知っていたので、フリーランスになれば声をかけてくれるんじゃないかという期待がありました。

退職した翌日に旅行に出かけたのですが、ソウルに戻ってきた当日、その友人から連絡があり、記事を書いて欲しいと依頼を受けました。

ー フリーランスとして独立してから4年間、仕事が途絶えた時期はありませんか?

ないです。

といっても、ジャーナリズムの仕事1本というわけではありません。韓国に住む外国人として、ジャーナリズムだけで食べていくのは本当に大変です。大手メディアとの定期的な雇用契約でもないかぎり、ほぼ不可能に近いんじゃないかな。ジャーナリズムはもともとお金になる商売ではありません。

でも僕にはPR業務の経験があるので、PR関係仕事も入ってきます。定期的なものはほとんどなく、その場限りの単発の仕事ですが、そういう雑多な仕事はいつもあるし、その手の仕事を請け負ってくれる人材への需要は常にあります。

仕事の依頼は人伝てや紹介が半分ぐらい、あとはtwitterとLinked Inn経由ですね。僕はtwitter中毒なのでいつもtwitterに張り付いているのですが、ただ遊んでいるわけではなく、PRも兼ねているわけです(笑)。

韓国メディアへの寄稿記事が大炎上して

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(韓国のニュース専門テレビ局YTNの番組に出演した際のひとコマ)

ー 2020年はとても大きな動きがあって、いままで以上に多忙だったと聞きました。どんな変化があったのでしょうか?

そうですね。3月に書いた記事が大炎上したのがきっかけでした(笑)。

1末からELLE Koreaにコラム記事の連載を始めていたのですが、そこで韓国メディアを批判する内容を書いたら、この記事がバズりまして。

(”한국 언론을 믿을 수 없는 다섯 가지 이유_라파엘의 한국 살이 #7” 「韓国の言論を信じられない5つの理由」ラファエルの韓国生活)

もともと僕のtwitterにはアンチが多いんですが、この炎上でさらに激増しました。もう滅茶苦茶叩かれ、ありとあらゆる罵詈雑言を投げつけられましたね(笑)。

でも良くも悪くも反響が大きかったので、その後の機会につながりました。韓国のテレビ番組への出演依頼が立て続けにあったり、欧米メディアから取材を受けたり、ソウル市主催のサミットに招かれたり。

この時点ではすでに自著の出版が決まっていたのですが、炎上後にもいくつかの出版社から「本を出さないか」とオファーももらいました。でも、バズる前に僕を見出してくれた出版社のほうがより信頼できるし、もう話を進めていたので、断っちゃいましたけどね。

そんなわけで、コロナ禍の渦中だからというだけでなく、個人的にもこの1年は本当にクレイジーな年でした。

ー 高校時代までさかのぼってお話を伺いましたが、あらためてこの20年間をふりかえって、いかがでしたか?

"Now I realize it's all connected. Everything we do"
(どんなことをしても、すべてつながってくるんだなあと実感しました)

世界トップクラスの大学に入っていたら、コンピューターサイエンスがどんなに面白くなくても、もったいなくて辞められなかったかもしれない。東京の大学に留学していたら、ものすごく楽しく過ごせて、その後韓国にくることもなかったかもしれない。PR会社の働き心地がよかったら、独立せずにそのまま居ついて、韓国メディアに記事を書いたり、本を出版する機会もなかったかもしれない。

もしかしたら、そのときの選択は最良ではなかったかもしれないし、その時点ではかならずしもいい経験ではなかったとしても、その結果としていまこうしている。面白いですよね。

ラファエルのtwitter: Raphael Rashid
ELLE Koreaでの連載コラム:"'K' 이제 그만_라파엘의 한국살이 #47"
(2020/12/25更新の最新記事「もう『K』はやめて」へのリンクです)

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