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柳田邦男 「犠牲 わが息子・脳死の11日」〜映画「サクリファイス」 アンドレイ・タルコフスキー

自分の年齢的なこともあるのか、最近は生と死について考えることが増え、それに関する本を読むことも多くなってきた。
そんな中で出会ったのが、柳田邦男「犠牲サクリファイス わが息子・脳死の11日」だ。
それまで柳田邦男氏の名前は知っていても、著書を読んだことはなかった。
本書は柳田氏の次男・洋二郎さんの記録だ。
洋二郎さんは25歳の時に自死を試み、その後、脳死となり亡くなっている。
ショッキングな題材ではあるが、洋二郎さんと自分とは同年代であることにまず衝撃を受け、この本は手に取るべき運命だったのだろう、と思った。

柳田氏はノンフィクション作家の目で息子の人生と死を考察し、冷静な筆致で事の次第を綴ると同時に、息子を亡くした一人の父親としての後悔と愛情、痛切な悲哀をも記している。

父である柳田氏との生前の対話や、本書に掲載された洋二郎さん自作の短編小説や日記などからも、洋二郎さんの感受性の豊かさ、繊細で傷つきやすく、生き辛さを抱えながら12年間という長い年月、孤独に心の病と戦っていたことが、ひしひしと伝わってくる。
もしもその苦悩が、小説などの作品を生み出す力となり昇華できていたなら、洋二郎さんは死なずにすんだのではないか…とも思った。
同年代ということもあり、洋二郎さんが当時、聴いていた音楽、読んでいた本、観ていた映画などは自分と重なる部分があり、かつての同級生に再会したような懐かしい気持ちにもなった。
洋二郎さんが亡くなった際に、周りにいた友人知人は驚き、彼がそんな苦しさを抱えていたとは何も知らなかった、優しく純粋な人だった、というような事を口々に述べるのだが、その人物像にまた春馬くんを重ねて見てしまった。
どうして、優しくより良く生きたいと願う人ほど、早く逝ってしまうのだろうか…。
やりきれない。

タルコフスキー「サクリファイス」、自己犠牲、救済 

洋二郎さんは生前、ソ連から亡命した映画監督アンドレイ・タルコフスキーに傾倒しており、中でも遺作となった「サクリファイス」に深い感銘を受けていた。
心の病で社会に出ることも出来ず、自分はこの世で誰の役にも立てなかった、と考えていた洋二郎さんは、「サクリファイス」の中で、核戦争から人類を救うために自らが犠牲になろうと自分の家に火を放ち、やがて精神病院に収容される主人公に、心を揺さぶられ、自己犠牲を願っていたという。

"私たちの平凡な1日1日が、どこかの名もない誰かの犠牲によって支えられているのではないか"

私もアンドレイ・タルコフスキーは敬愛する作家で、洋二郎さんと恐らく同時期によく映画館にも通い作品を観ていたが、その作品の言わんとする本質を理解出来ていたかというと、だいぶ疑わしい。
この「サクリファイス」の主人公は、以前ドストエフスキーの「罪と罰」を読む中で知った、ロシア正教でいうところの瘋癲行者ふうてんぎょうじゃという奇行を重ね狂いながらもキリストの真理を明らかにしてゆく聖人、を象徴する人物像でもあったのかもしれない。
今この作品を観返したなら、もう少し理解が深まりそうな気もする。

脳死、グリーフワーク、臓器提供

洋二郎さんの悲願である "人の役に立ちたい" "自己犠牲" という遺志を継ぎ、人生を完成させてやりたい、と柳田氏が考え抜いて出した答えが、腎提供だった。
洋二郎さんはもともと骨髄バンクへのドナー登録をしていたが、脳死となってから適合者が見つかる確率は低く、医師から臓器提供の提案を受け、最終的に家族が決断した。

本書で柳田氏が警告しているのは、脳死から一気に臓器提供へと進んでしまうのは、あまりにも遺族の気持ちや喪の仕事が蔑ろにされていないか?ということだ。
脳死と臓器提供までの間に、遺された者のグリーフワーク、泣いたり叫んだり祈ったりして悲嘆を受けとめてゆく時間と場が、必要不可欠ではないか?ということを述べている。
本書が発表された1995年は脳死を人の死と認めるか、という法改正の狭間にあり、それまでは心臓が停止するまで臓器摘出は認められていなかった。
しかし1997年に臓器移植法が施行され、移植を敏速に進めるためにも脳死は人の死であると認定されるに至った。

遺族のグリーフワークということには心を砕かず、臓器提供を急かす移植医がいるということに憤りも感じたが、自分とてそれまでは一刻も早くドナーから臓器提供してもらうことは優先されるべきことだと思っていた。

実は、夫の甥っ子(妹の息子)には生まれつき腎臓に異常があり、幼い頃から重い腎臓病を抱えていたため、中学生の頃には透析も始まったが病状は悪化の一途をたどり、残るは移植しか助かる道はないというところまで来ていたが、16歳の時に奇跡的にドナーが見つかり移植手術を受けることができ、一命を取り留めたのだ。
あの時、腎提供を受けることが出来なかったら、確実に甥っ子は今生きていないだろう。
当時ドナーになってくれた方にはもちろん深く感謝したが、その背後にいるドナーの家族、グリーフワークにまでは考えが及んでいなかったことを、本書を読んで思い知らされ自分を恥じた。

いのち 永遠にして

洋二郎さんの墓石に柳田氏は "いのち 永遠にして" と刻んだという。
その言葉の通り、死後も洋二郎さんの一部はどこかの誰かを救い、その体の中で第二の生を生き続けたのだ。



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