夕食の話題がテレビか「宗教」か「布教」かしかないとか、そりゃあ病むだろうよ。昔むかしってそれしか話題がない時代があったのかな・・・
「食事はなるべく家族一緒にとろう」
なんとなくみんな元気な時は、
そんな空気になるので同じ時間に同じ場所で食事をする。
父はベッドの上なので、
残る母と弟と私。
2人は、
今や世間でのコミニュニティーが、
テレビか宗教関係の人しかいない。
だから必然的にその話しかしない。
今日も最終的に、
「幸せに死ぬ為に、今苦しくても活動する」
とか
「来世幸せになる為の話をしてあげるのが使命」
とか
「今」というものを見てないから、
今食べている食事すら美味しくないし,
居心地が悪くて早く席を立ちたくなる。
以前、
仕事の打ち合わせしながらランチしていた時、
隣の女子2人は、
家族や舅の悪口ばかり2時間くらい話していて。
その話を小耳に挟みつつ、
ビジネスについて希望あふれるお客様と、
未来への希望を話していたらなんだか異世界のようで。
「家庭に篭るとそうなっちゃうのかな??」
なんて話になったのだけれど。
今思えば、
愚痴の吐きドコロは大切ということなのかも。
仕事だって、
「なんでやねん」
ということはたくさんある。
外国では、
それすら上手く伝えるコミニュケーションが
生まれた時からとれているのかもしれない。
嫌だと思うことを素直に、
そして上手に伝えられたら、
愚痴ではなく「私の意見」としても伝えることが出来る。
そして譲り合えばいい。
それがしにくいのは、
きっと日本人が繊細だからだろう。
以前フランス人の女の子が、
「フランスの人はズバズバ自分の意見を言うし傷つくこともたくさんあるけど、日本人は本当に優しい♡」と言っていた。
私も今日は夕食の席を立つときは、
「布教もノルマ的な感じで大変だねえー」
そうついつい嫌味を言ってしまった。
ビジネスではモノを売る。
宗教は幸せを押し付ける。
お金が動くか動かないかだけで、
他人をなんとかしたいエネルギーは同じ気がする。
本当にその宗教を広めたいなら、
その人が思いっきり幸せになればいいだけだし、
モノを売りたいなら、
その人がそれで幸せになった様子を出せばいい。
人は自分自身でしか幸せになれないのだから。
鬱で20年以上働いてなくて毎日ゲームして。
そして死ぬときが幸せな為に生きるなんて、
そんな弟がやってる宗教、
私はやりたくないのだ。
好きでもない人と結婚して、
人生は我慢が基本で来世は絶対幸せに生まれると頑張ってる。
そんな母の人生の支えになっている宗教って、
なんなんだろうかと思う。
結局は、
同じものでも
「誰から伝わるか」
そういうことなんだと思う。
私が家族から教わっていることって、
結局人は自分で自分を幸せにするしかない。
そういうことなのではないだろうか。
自分のやりたいことを我慢して、
家族は今日も祈っている。
幸せに死んで来世幸せになる為に。
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