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嫌われ者の勇気。

学校生活でいちばん辛かったのは、
「みんなと仲良くしなさい」
「友達を作りなさい」
「独りでいるのはよくないことだ」
……などと言われ続けたこと。

だが、相手あるいは周囲の人たちが私のことを嫌っている状況にあって、
どうやって友達を作ればよいのかについては、誰も教えてくれないし、誰も助けてもくれない。

先生たちは私に「友達を作る努力が足らない」というけど、
そのように言う先生たち自身をも含め、周囲は私のことを嫌っている。
で、その、自分のことを嫌っている相手と友達になろうとすることは、
果たして、親切なことなのだろうか?
相手の気持ちを思い遣っていることになるのだろうか?

少なくとも日本人であれば、子どものときから、
「人の嫌がることはしてはいけない」と教わるはずだ。
そうであれば、嫌われ者が誰であれ友達になろうと(努力)することは、
まさに、
「人の嫌がること」
をしていることにはならないだろうか?

もちろん、相手が私のことを嫌うのは、
それはその人の自由であり自主性であり主体性のことなので、
こちら側はそれに立ち入ることはできないし、そもそも立ち入っていけないことだ。

もし嫌われている理由が、いけないこと、悪いことをしているというのであれば、それを正す必要があるのは言うまでもない。
だが、嫌われているその理由が、障害に対する無知や差別や偏見などから来るものであれば、
それは相手の分であるとは言え、こちら側にもある程度、出来ることはあると思う。

というのも、人は誰でも本能的に、得体の知れないものに対して自然の恐怖心を持っている。
そして、その恐怖心は、《知らない》ことから来ている。
だから、その不安というポッカリと空いた空間に寄り添うことは必要なことだと考える。

したがって、その不安また恐怖心を取り除くには、
障害当事者が自ら情報発信すればよいことだと思う。
それは言語によるものだけとは限らない。何等かの作品でもいいと思う。

世の中が障害当事者に歩み寄らなければ社会参加は不可能だ。
だがそれだけでなく、
障害当事者もまた発信活動や創作活動を通じ、世の中に歩み寄っていくことで、
積極的に内面を開示し、自分が何者なのかを世の中に示していくことが、大切なのではないかと思う。

もちろん「言うは易く行うは難し」で、
そうした活動は得てして(健常者・障害者問わず)周囲の敵意や憎悪を買うこともある。
それによって心が折れることもある。
だがその一方で、理解者が得られることもある。

それで私にできることは、
人々の良心と良識と善意という後者が必ず存在するということを信じてみることだ。
冒険という字が「危険を冒す」と書くように、
それがどんなに無謀で理想的でおとぎ話に思えてもである。◆
(2023.1.31)

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