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【短編小説】夏の音

「芦澤さん?」

ふと自分の苗字を呼ばれて我に返る。苗字なんて普段呼ばない間柄の鷹人から自分の苗字が出てくることに少しヒヤリとした気持ちになった。

「どうしたの?」
「どうしたのじゃないよ、僕が『どう思う?』って聞いたのにずっと上の空だったのはそっち。だから普段言わない苗字で呼んでみようと思って、成功」
「あ、ごめん」

ん、と頷いて鷹人はアイスコーヒーをズズっと飲んだ。底に溜まっているのをストローで吸おうにも氷が邪魔をしている。小さい世界で格闘している姿はいかにも少年のようだ。職場の先輩として出会った鷹人の垣間見える少年のような姿を見るたびに心がくすぐったい。

さっきの里穂は確かに上の空だった。なぜならこの喫茶店に入る前にすれ違った女の人から香水の匂いがしたから。嗅いだことのある匂いだ、と思ったと同時に記憶が勢いよく巻き戻された。それは、いつかの夏祭りのことだった。

浴衣なんて着るようなキャラじゃなかったから、なんて自分に言い訳をしていた大学1年生の夏休み。地元の夏祭りは例年通り大勢の人で賑わっていた。花火大会もある夏祭り3日目ということもあり、人混みで亜矢華とはぐれないようにするので精一杯だった。

「里穂!ちゃんとうちの後ろに居ってよね!」
「わかっとるよ!」

そう言いながら先導する亜矢華のうなじに流れる汗を見ていた。高校生の頃は毎日会って話していた亜矢華だが大学に入ってから会うのはこれが初めてだ。亜矢華は大学生活のスタートを上手に切ったようで学園祭の実行委員になった話や、新歓でカラオケオールをした話、飲み会で先輩が大暴れしてた話、サークルのメンバーで夏休み中に海に行くんだという予定をいきいきと話していた。

なんか違うかも。

ふと感じた違和感を飲み込んで里穂は亜矢華の話に相槌を打っていた。
「で、そっちはどうなん?」
里穂は言葉に詰まった。亜矢華ほど規模の大きな大学に通っていない私は、そんなに話せるエピソードはない。文学部で同じように文学について話せる友だちが出来て嬉しいな、と満足しているくらいだから。

「あー、もしかしてデビューし損ねた?」
そうじゃない、と言いかけたとき亜矢華は続けた。

「うち思ってたんだよね〜里穂は高校のときから話してても異次元の話してんのかな?ってときあってさ。悪い意味じゃなくて私みたいな凡人には伝わんないよって!だからさ、あんまり里穂の世界観を人に見せびらかさない方がいいよ?みんな理解できないし!うちは気にせんけどね、友だちやしね」

ヒヤリとした。
このときにさっき感じた「なんか違う」は「違う」に変わった。たぶんもう亜矢華とは前のように話せない。そう思った。

夏祭りの人混みに揉まれる前にそんな話をしたものだから、人混みに紛れて必死で歩いている間はなんだかずっと孤独でひたすら亜矢華を追いかけることしかできなかった。

そのときにふわっと香った。亜矢華からではない。私たちとは反対方向に行こうとしていた派手な女子四人組の誰かだ。この匂い、なんだかピンクの浴衣に蝶々の柄が入ってて、派手なネイルなんかしちゃって、そしてみんなで記念にプリクラとか撮ってそうな匂いだな、と思っていた。
私には到底なれない人種、そう思った記憶がある。

「てかさ!なんで里穂浴衣着てこんかったん?うちだけ浮いとるって!ほんまに!」
「ごめんって、毎年普通の服で行っとったで今年もそうかと思ったんよ」
「ちゃうやろ!うちらもう大学生よ!去年までとは違うって!はじけなよ!里穂にはそれが足りんのやって」

これだ。ヒヤリとした正体が分かった気がした。亜矢華は私より満ち足りたものをほんの数ヶ月で得ている。そして内心きっとあの頃と変わらない私のことを見下している。上手にまとめあげた髪の毛、ピンクの浴衣、夏休みに入ってすぐに通い始めたネイルサロンで仕上げたという爪。さっきの香水の匂いさえしないものの、亜矢華はそちら側に溶け込める素質がある、というのがひしひしと受け取れた。

正直そこから先の夏祭りの記憶なんてほとんどない。私には手の届かない存在になった亜矢華、私より大学生としての何かが足りている亜矢華、香水の匂いが漂ってきそうな亜矢華。亜矢華はそう思ってないかもしれないけど、私はもう亜矢華に高校生の頃みたいに接することはできないなと思った。

亜矢華の言った「はじけなよ!」がずっと頭の中に引っかかっていた。

次に亜矢華とは二人で遊ぶ日はその夏祭り以降訪れていない。

「里穂、そろそろ行く?」
鷹人がたずねてきたので、私もアイスコーヒーをズッと飲み干す。
先に飲み終わっていた鷹人のグラスはもう氷だけになっている。細長いグラスに積み上げられるように入れられていた氷はまだ上手くバランスを保っている。

「はじけなよ!」ってなんだよ。自分の視点で物を語らないで。私は私なりに充実した大学生活を数ヶ月間送っていたし、無理にはじけなくたって十分楽しかったのだ。当時の夏祭りの帰りにぐるぐる考えてきたことが蘇る。あの、香水の匂いがしたから。芋づる式に思い出されてしまった。

露店に並ぶりんご飴だって、りんごのまわりが飴で固められて成り立っているじゃないか。金魚すくいですくわれた金魚は小さなビニール袋に入れられて人々の腕にぶら下がって家に持ち帰るじゃないか。ラムネのビー玉も取り出せないところにあるし、ヨーヨーも中に水が入っていてじゃぽじゃぽ言ってる。これらが急にはじけたらどう責任を取るんだろう。はじける要素があっても、はじけないようにする。そういうことだってあるじゃないか。また、異次元の話と思われてしまう。今となってはどうだっていい。

「ッドーーーーーーン!」

はじけた。花火が上がったときにそう思ったことだけはしっかりと覚えている。花火はみんなの期待通り、大きな音と鮮やかな光でちゃんと夜空にはじけた。私だって…。

「僕は花火大会のおっきい花火より線香花火のほうが好きだな」
いつだったか鷹人がそう話したときに里穂は安堵した。私もそっちのほうが好きだ。小さくはじけるのが素敵だから。

「カラン」

鷹人のグラスの氷がくずれた。
「わたし、氷のこの音、好き」
「夏っぽくて良いよね。だから飲み終わってから期待してちょっと待ってた、いつ崩れるかなって」

理解してくれる人、いるじゃん。
伝票を持って先行く鷹人を目で追いつつ、安堵を胸に里穂は立ち上がった。

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