「障がい児」の言葉の向こうにいる「だれか」の話
こんにちは、モンブランひとみです。
私には発達障害(自閉スペクトラム症)の息子がいます。
対人関係やコミュニケーションの苦手さと、
のめり込むと没頭してしまうこだわりの強さがあります。
そんな息子との毎日はヘトヘトながらも
彼の目を通して見える世界を楽しんでいます。
私は息子を愛しているし、夫も息子を愛しています。
そこに発達障害が「あるのに」とか
障害が「あるから」というメッセージは全くなく。
息子という個人を愛し、彼によって人生の学び直しをさせてもらっていることへの感謝と敬意を感じています。
そんな日常を送る中で、胸をかき乱されるような報道がありました。
ここに詳細は書きませんが、障害児に対する過去のいじめの話です。
色々な意見が飛び交っていることも知っています。
私は当該事件について言及するつもりはありません。
ただ今回の件を通して、ひとりの発達障害児の親として感じたことと、その気持ちを代弁してくれた記事を紹介しようと思いました。
障がい児育児をされてきた、しらいわ よしこさんが書かれたnoteです。
※記事の中で「障がい児」と表記されているため、今回はこちらの表記で統一しています
この記事は、「障がい児」という言葉の向こう側にいる「ひとりの個人」に焦点を当て、その「個人」がどれだけ親に愛され育ってきたのかということを可視化しています。
「障がい児」という言葉は、ともすればただの看板になってしまいます。
でも実際はその後ろに、性格も、人格も、育ってきた環境も、障害の特性も様々な、「ひとりの個人」が存在します。
「障がい児」という名の人は誰もいません。
それは「障がい者」も同じです。
その言葉の向こうには必ず「人」がいます。
そしてその「人」を愛し、見守る人たちが沢山います。
そのことを伝えるための記事だったと私は感じました。
本文中の言葉です。
「差別といじめに寛容でどうする?寛容であるべきなのは、肌の違いや、能力の違い、人々が多様であることに対してであって、その寛容な社会を作るためには、差別やいじめを許してはいけないのだ。」
この記事に関する感想を読む中で、
「寛容を求めることは理不尽だ」というような意見を目にしました。
果たして、寛容を求めることは理不尽なのでしょうか?
時に、自分は誰かに「譲ってやる側」だと思って疑わない人がいます。
ではあなたは本当に「譲ってあげている」だけでしょうか?
寛容であること、寛容な社会ということは、
自分もまた誰かに寛容に受け入れてもらっているということです。
人はいつだって、誰だって、
誰かの寛容さに救われながら生きています。
誰かが「優遇」されているわけではなく、
「搾取」されるわけでもありません。
誰かにとって優しい社会は、全ての人に優しい社会です。
しらいわさんの記事の中で
「いじめはいじめる子の問題」とありました。
「いじめる子の寂しさや問題」に目を向けてあげて欲しいと。
まさにそう思います。
いじめは許されません。
でもそこに至るまでに歪んでしまった理由もあります。
子供はとても敏感で、子供と言えどもプライドがあります。
むしろ子供ゆえに、残酷なくらい位置づけや順位に敏感な部分もあります。
大人に求められるプレッシャーに持ちこたえきれずに心が歪んでしまう子がいます。
抱えきれないほどの寂しさと、その向けどころに迷う子もいます。
そんな子を作らないためにも、
寛容で温かい社会の実現を望まざるを得ません。
最後に…
私たち夫婦は息子を愛しています。
愛で満ち満ちたふかふかな心を育てられるよう日々愛情の水を注いでいるつもりです。
「自分は特別な存在なんだ」
息子がそう感じてくれたらいいなと思っています。
そして、もう少し大きくなってたくさんの子供たちと関わるようになった時
「自分がそうだったように、目の前のこの子も、愛されてきた特別な存在なんだ」
そう気づいてくれたらいいなと願っています。
全ての人がそう実感できる社会こそが、
本当の意味で寛容になれる社会だと思っています。
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