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『裸の聖書』13. 始まり:すべては創世記の翻訳から始まった -1

こんにちは、もんぱちです❣
情報戦争につき、必要な情報をできる限りお届けするため『裸の聖書』を翻訳して拡散しています。

わたしたちは本当に前例のない氣候変動に直面している?
レオナルド・ダ・ヴィンチが再現した南極大陸には、まったく氷が存在しないのは何故?
誰かが本当に過去をコントロールし、現在を支配して未来を形作っているの?

使徒パウロが『原罪』という考えに至るのに聖書のどの一節を引用したのかはまったく明らかではないって、どういうこと?
キリスト教は原罪を犯した人類の歴史的救済として理解される信仰ではないの?
誤解に基づいた物語の解釈というなら、なぜこれまで公式に解決されなかったの?
現在を管理し、コントロール可能な未来へと導くため?

聖書が全能で永遠の神、無から天と地を創造した神について語っていると思うのならそれは間違いだ。
「自分で読んでください。人に読んでもらうことに限定しないでください。」

前回の記事はこちら↓↓↓

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始まり:すべては創世記の翻訳から始まった -1

「わたしは過去をコントロールし、過去の知識を管理することによって、現在を管理し、未来を計画することができる。」
そんなことが可能なのだろうか?
地球儀を回しても、これという答えは得られない。テレビに映し出される衝撃的な映像は、北極の氷冠が容赦なく溶けていく様子を映し出す。
氷山の間を氷のいかだで漂流するホッキョクグマは、わたしたちなのか?
過去とは、絶え間なく書き換えられている奇妙な『書物』のようであり、文字通り終わりがないようにみえる。
ところで、わたしたちはこのような前例のない氣候変動に直面していると本当に確信しているのだろうか?世界で最も寒い国のひとつであり、ホッキョクグマの生息地であるグリーンランドには、その名前そのものに一種の謎があると常に指摘する人がいる。
氣をつけて、と生態学者たちは言う:グリーンランドがある時期には実際に 『緑』に覆われ、温暖な氣候の恩恵を受けていたと本当に信じられるのは、氣候変動を『否定』する人々だけなのだ。彼らは別の物語を伝える。『グリーンランド』という名前は、千年前にはすでに非常に過酷であったこの土地の真っ只中で、ノルウェーの赤毛のエリックが部下を説得するためにつけた造語だと語っているのだ。
その一方で、ルネサンス時代の地図がすでに南極大陸の地理を再現しており、しかも驚くほど詳細であることを指摘する人々も少なくない。つまり、氷の大陸は1400年の時点ですでによく知られていたのである。そして、レオナルド・ダ・ヴィンチが再現した南極大陸には、まったく氷が存在しないことにも留意してほしい。
ホッキョクグマとペンギン。地球の対極に生息する象徴的な動物たちの自然史は、わたしたちに何かを語りかけていないだろうか?
約1万二千年前、地球は文字通り破滅的な彗星の雨に飲み込まれ、地球の氣候を破壊したと一部の地球物理学者が確信するようになったのは、2014年になってからだった。
黙示録的な規模の『リセット』は、まず太陽を覆い隠し、100年続く非常に長い冬を引き起こし、次に極冠を溶かして海面上昇を引き起こしたのだろうか?この大変動は、現在インド洋の沿岸から姿を現しているような沿岸都市を沈没させる原因となっただろう。
パオロ・ルーモアの本の読者にとっては特に、疑問が次から次へと湧いてくる。著者は、追跡可能な歴史、少なくとも推定可能な歴史の始まりを、ある種の『ゼロ年』に置いている。
この秘密の歴史は、この幻の『存在』によって、極めて慎重なやり方でコントロールされていたはずだ。そして王朝帝国と偉大な文明を創造した後、欧州連合を含む現在の近代性の創成の背後にもいたはずである。
国家、宗教、戦争、古風な信仰、そして激しい進歩。誰かが本当に過去をコントロールし、現在を支配して未来を形作っているのだろうか?
マウロ・ビグリーノが2017年に法哲学者でミラノの大学教授であるロレーナ・フォルニと共同執筆した『聖書はそんなことは言っていない』という本が、とりわけ興味深い示唆を与えている。
その発見とは、理論的には宗教書である聖書が、わたしたちの氣づかないうちに、どれだけ市民生活の基本的な要素を規定しているのか、全く見当もつかないということだ。同じ法則は非宗教的な国でも広まっている。
もう一つのニュースには、いくぶん面白い要素がある。
旧約聖書が、法学者たちがそこに見出したと思われる公衆道徳のテーマを実際に裏付けているとしたら、それは素晴らしいことだ。彼らは単にとんでもない失態を犯しただけなのだろうか?

マウロ・ビリーノは、これらのページを調べて原文で読み直すという、いつものやり方でこれに答えている。
それは、人を狼狽させ動揺させる演習である。
その節の中には、わたしたちの倫理観に匹敵するようなものは見当たらない。
また、霊性という概念も見当たらない。さらに言えば、死後の世界の可能性をまったく考えなかった古代ユダヤ文化にとってさえ、この概念は異質なものだ。
このことは、2016年にミラノで開催されたビグリーノの研究に関するシンポジウムで、600人の熱心な聴衆で満席になった講堂で講演したカトリック教徒で大学の神学者であるドン・エルミス・セガッティのような教養の高い司祭にさえ指摘された。
驚きに満ちた一日だった。ビグリーノと並んで登場したのは、セガッティをはじめ、正教会のアボンディオス大司教、ヴァルド派の聖書学者ダニエレ・ガローネ、トリノのユダヤ人コミュニティーの首席ラビ、アリエル・ディ・ポルトといった現代宗教思想の著名人たちだった。
「その講堂で発せられた最も印象的な言葉の中に、次のようなものがあった:使徒パウロが原罪という考えに至るのに、聖書のどの一節を引用したのかは、まったく明らかではない。」
どういうことだ?
この『事件』は、キリスト教全体の根底にあるものではないのか?原罪を犯した人類の歴史的救済として理解される信仰ではないのか?
まさにその通りだ。その効果は驚くべきものだ。二千年もの間、わたしたちは、宗教文化の代表者たちでさえ、根本的な誤解に基づいていると思われる物語の解釈とともに生きてきた。
もし本当にそうであれば、なぜこの誤解、誤った解釈は、これまで公式に解決されなかったのだろうか?それは、現在を管理し、コントロール可能な未来へと導くために使われる、過去の慣習的な表現とも関係があるのだろうか?
マウロ・ビグリーノは、何度も読み直し、繰り返し調査し、最終的には自分で翻訳した分厚い本を手にして、再び微笑む。
「もちろん、古代ヘブライ語のテキストに厳密な根拠があるとはいえ、これらはまだ仮説に過ぎない。」とビグリーノは言う。
もし信者が、この書物には全能で永遠の神、無から天と地を創造した神について語られていると未だ主張するなら、それは間違いである。神のような超越的な創造主が存在する可能性を否定するわけではないが、その本には、エロヒムと呼ばれる数人の存在が、耕作可能な土地と水域を切り離し、領土の一部を再編成したと、文字どおり書かれているだけであることに注意しなければならない。これはダム建設のように聞こえるかもしれない。
真剣に考えてみよう。
マウロ・ビグリーノはいたって真剣だ。そして、彼は10年間同じことを繰り返してきた。彼は本を開いてこう言うのだ。自分で読んでください。人に読んでもらうことに限定しないでください、と。

人はどうやったら真実に出会えるのだろうか?いやむしろ、ありのままの文字通りの真実に、出会えるというのだろうか?明らかに、その聖書の節が書かれた母語に精通することによってである。
このイタリア人翻訳者の場合、彼の冒険は数年前に始まった。
彼の過ち?旺盛な好奇心、高校時代にはすでに顕在だった。
ギリシャ語に、ラテン語。
「そういうものだ。古代言語は、学童期から一貫してわたしを魅了してきた。」
そして転機は、聖書のヘブライ語との出会いだった。
運命?
「それは見方による。実はヘブライ語を勉強している間に、中国語も学ぼうと決心していたんだ。」
それは素晴らしい。
「そう、中国語!だからトリノのイタリア中国文化協会を頼ったんだ。」
予知能力?
二千年紀と三千年紀の変わり目、かつて天帝国と呼ばれた中国は地球の地政学的歴史において決定的な役割を担おうとしているように見えた。わたしたちは遅ればせながらこのことに氣がついた。今日、世界の他の国々は、もうひとつの大帝国である大西洋帝国との危うい衝突の危険に晒される程に、中国企業の(商業だけではない)浸透に直面している。
しかし、時には単純な予期せぬ出来事が突然、事態の流れを変えることもある。当時『中国学者』を目指していた彼の場合、一連の出来事が彼の進むべき道を決定づけた。
「中国語のコースが始まるのは半年先だった。その間にサン・パオロ出版社での会合の招待状が届いたんだ。」
さらば、万里の長城。その時点で、聖書の典拠を直接研究することに彼の興味は移っていた。
「古代ヘブライ語はいつもわたしを魅了していた。1980年代に旧約聖書を読み始めてから、さまざまな方法で取り組んできたんだ。」
そして、トリノのユダヤ人コミュニティで運命的な扉が開かれた。
「彼らはとても親切で、先生までつけてくれたんだ。」
授業に次ぐ授業:原文、手記、試験。
「わたしはまた個人的な情熱から、練習として独学で翻訳を始めた。」
なんと素晴らしい実習になったことか。「創世記を全て、鉛筆を使い、ヘブライ語で書いたんだ。」
ヘブライ語で1行、その下に発音でもう1行、そして3行目に生徒自身による直訳。結果、400ページにもなった。
「それはわたしにとって初めての本格的な創作のようなものだった。大きな喜びと、最初の一歩を踏み出したときの思い出から来る感動とともに、本当に大切にしているんだ。」
その氣持ちは想像に難くない。
「その後、『出エジプト記』の翻訳に取り掛かったんだ。」
教会の公式出版社である名門のエディツィオーニ・サン・パオロ社が、最新の行間翻訳版を再出版したばかりだった。
「わたしは自分自身に言ったんだ、まあこれも翻訳してみるかと。それから、どれだけくだらないことを書いたか、確認してみようってね。」




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始まり:すべては創世記の翻訳から始まった -2 へ続く
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