見出し画像

生きるとはなんぞや

僕は医療に携わる人間として、
『生きる』ということをよく考える。
『生きる』ということを知るためには『死ぬ』ということを理解せねばならない。
そして逆もまた然り。
『死ぬ』ということを知るためには『生きる』ということを理解せねばならない。

これはパラドックスになっていて、
結局両方理解できないということになってしまう。
理解できる可能性としては、
『生』と『死』を両方同時に理解するということだ。

生物学的な話をするならば、
『死』とは心臓が止まって、脳の活動が停止して、みたいな話になるのだと思う。
『死』をそう定義されると『生』は心臓が動いて、脳が活動していてという話になるだろう。
言いたいことはそこではない。
しかし、お互い逆説であるという関係性はわかりやすい。

これらのことから、僕は『生き方』とは『死に方』だと思っている。
それは個人の価値観に依存し、
周りがどうこういうことではないかなと思っている。
その周りというのは家族でさえも、だ。
『生きるとは死ぬことと見つけたり』ということかもしれない。

僕は医療という現場にいるので、
『死』というものを身近に見てきた。
そういう僕が思うのが、

死時は自分で決めたい

と思うのだ。
僕の場合でいうと、自殺したいわけではないのだが、
ある程度自然の流れの中で死にたいのだ。

先日、高齢のおじいさんがきた。
お酒が好きで、
夜の晩酌が生きがいのようだった。
そしてその人はC型肝炎だったのだ。
そして、その人と少し話をした。

僕は「今はC型肝炎は薬で治りますよ。」といった。
おじいさんの回答はこうだ。
「その薬するなら、酒やめなあかんらしいねん。
ようせんわ。」とのことだった。
肝硬変になるとしんどいし、
あと戻りもできない。
色々話をした上で、僕はこんな話をした。

「医者の立場からあまり言うことではないが、
〇〇さんの場合は、自分の状況を理解した上で、
好きに酒を飲ませてくれと言うならばそれでいいと思う。
これで、”酒は飲みたい!”、”病気は治せ!”だとスジが通らないが、
病気もわかってる。それを治せとも思わない。
ただ、酒が飲みたいんだ。と言うならば、
それはそれでいいと思う。」と言ったのだ。

言葉少なな人ではあったが、
診療の最後に当該患者さんはこんなことを言っていた。
「先生、ワシもそう思っとるんや。
先生の言うとることは正しいと思う。」
と。
これはあくまでこのひとと僕の話であり、
全ての人に共通することではないということを
ご了承いただきたいが、
こんな価値観もあるということだ。
僕は当たり前だが、
病気を治したい人には薬も出せば、
自分の手におえないなら紹介状も書く。
病気を治すという選択肢もあれば、
病気と付き合うという選択肢もあると思うのだ。
特に終末期の場合はその可能性が大いに出てくる。

もうすでにある程度高齢であり、
多少寿命が縮んだとしても、十分生きたと本人が思っている。
その残り少ない人生を好きな酒を飲んで生きたい(逝きたい)と言っているのだ。
尊重してあげて良くないか?と考えたのだ。

自分の好きなものを禁じて長生きするのか、
好きなものを口にしながら寿命を削るのか。

QOLの問題だ。
時間はかけがえのないものだ。
好きなものを封じてでも時間を得たいというひともいるだろう。
逆に好きなものを封じてまで長生きしたくないという人もいるだろう。
この価値観はひとそれぞれであり、
自分が決めることだと思う。
この価値観は家族にすら口出しできないことだと僕は考えている。

自分の価値観はどちらかということだ。
あなたは死ぬ時に
「みんなと過ごした時間が少しでも長くなったならよかった。
みんなと過ごした時間が幸せだったなぁ。」
と思いたいか、
「好きなもの口にして、好き勝手した。我が生涯一片の悔いなし。」
と思って死ぬかだ。

あなたが人生で迷ったとき、
判断基準の一つとして、

死ぬ時にどう思って死にたいか

これを考えるのはいかがだろうか?
その判断基準はよりよく生きるため、
自分の人生を豊かにするための判断基準になるのではないだろうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?