『自閉症の僕が跳びはねる理由』を読んでみた
こんにちは。
ものくろです。
はじめに
今回は、東田直樹(2016)『自閉症の僕が跳びはねる理由』角川文庫(原著は2007年に書かれています。)を読んでみての感想となります。ただ、単なる紹介ではなく、自分の感覚と絡めて紹介していきたいと思います。
僕は「当事者研究」に憧れがあり、自分でもやってみたいとは思っているのですが、僕の鈍感なセンスでは感じていることを高精細に描くことは非常に難しく感じています。そのため、本書の力を借りて少しでも自分と向き合いたいという思いで今回のnoteに望んでみました。
※今回の記事はエビデンスベースの科学的な話ではないので、その点はご了承下さい。あくまで感覚的な話をしています。
本書を選んだ理由
僕は普段専門書や実用書を読むことが多く、文庫本に手を出すことはあまりありません。これは文庫本に興味がないということではなく、専門書や実用書の類に縛られているということだと思っています。
ですので、エッセイである本書を読むことは非常に億劫であるというか、ハードルが高いことになっていました。しかし、心理系の専門書(自閉スペクトラム症、ASD関連)を読んでいる中で、何回も「東田直樹」という名前を見かけることがあり、失礼な表現ですが専門家も認める「東田直樹」とは一体何者なのかと以前から気になっていました。そういう背景があり、東田直樹さんの代表作である『自閉症の僕が跳びはねる理由」を読むに至ったわけです。
気に入った散文の紹介-7 独特の話し方はどうしてですか?
太字になっている部分が個人的に共感した文章になります。
僕の場合、東田さんのように重度の自閉症があるわけではないのですが、同じように本当に言いたい言葉と話すために使える言葉が、同じでない場合があります。
僕には吃音があり、言いやすい言葉と言いにくい言葉があります。これは噛みやすいか、噛みやすくないか、といったことではなく、吃りやすいか、吃りにくいか、といったことです。
また、吃音のある人で、実際の話す場面になると語彙力が低下してしまう、と言った話を聞いたことがあるのですが、これは僕も感じたことがあります。
誰でも人と接する時には大なり小なり緊張するとは思うのですが、吃音があることで一人の時には自由に操れていた言葉たち(実際に声を出すのではなく、頭の中での話です。)が、人と実際に接することで緊張してしまい、自由に操れなくなってしまうように感じます。この緊張は、頭が真っ白になるレベルの緊張ではなく、自分では気づけない程度のマイルドな緊張だと感じています。その緊張の影響を受けやすいことが、吃音があることと関係しているように感じています。
ですが吃音だけではなく、確かに言いたい言葉と使える言葉が違うことはよくあるように感じるのです。それは、性格が素直ではないからとも言えるのですが、思っていることと正反対のことを言ってしまう、言いやすく感じてしまう、ということです。
学生の頃に、友達から「○○は、上げてから下げるよね。」と言われたことがありました。これはどういうことかといいますと、嬉しい話をした後に、批判的な話をしてしまう傾向がある、ということです。
僕の場合、嬉しい状態にいられることが人生の中で貴重であるように感じており、ある意味で簡単に崩れてしまいそうな不安定な状態にいるように感じてしまいます。そのため、嬉しい話をした後には、批判的な話を入れることで、いつものマイナスの状態、デフォルト状態に戻さないと、いつ崩されるのか分からなくて不安になってしまうように感じるのです。
このように、東田さんほど発話が不自由でなくとも、誰しも大なり小なり言葉を思った通りに操れず、切ない思いをすることがあると思います。
気に入った散文の紹介-9 あなたの話す言葉をよく聞いていればいいですか?
「声に出せること=話せること」ではない、というお話はとても共感できるところがあるように思いました。
例えば、「何か困っていることはありませんか?」と聞かれて、素直に「はい、私は困っています。」と答えられる人が少ないように、必ずしも声に出した言葉は本心ではないように思います。
具体的にどのような場面でと問われると困るのですが、社会には「声に出した言葉、表現した言葉=絶対的な本人の意思」と捉えられてしまう残酷な風潮があるように思います。
「嫌だ」と口にできなければ、それはOKという意味だと解釈されてしまうことが多いように感じます。それは、ハッキリと断る意思を示さない本人の責任であるかのように扱われてしまい、断るに断れない「過程」の部分は無視をしていいかのような風潮があるように感じています。
ルールを設ける上では、「言った」、「言わない」は大事な要素ではあると思うのですが、必ずしもそれだけで解決できるわけではないのではないかと思います。そんなことを「僕たちの話す言葉を信じ過ぎないで下さい。」という言葉は教えてくれるように感じます。
気に入った散文の紹介-10 どうして上手く会話できないのですか?
「話したいことは話せず、関係のない言葉は、どんどん勝手に口から出てしまう」に、とても共感しました。多くの吃音のある人(PWS)に共感されることなのかは分からないのですが、本心から言いたいことを言おうとすると吃音が出やすくなりやすいように感じています。逆に、どうでもいいことや、覚えたことを人に教えるような場面では比較的吃音が出にくいように感じます。僕は以前塾講師のアルバイトをしていたのですが、何故塾講師のアルバイトを選んだかと言えば、ホワイトボードを用いて教える時は吃音が出にくかったからです。特に、バイトを始めたての頃は慣れていない業務であったために、程よく緊張感もありほとんど吃音が出ることはありませんでした(しかし、バイトを続けていくうちに仕事に慣れて、徐々に吃音が出るようになり、その頃からはバイトですらとてもストレスを感じるようになっていました笑)。
僕の場合、飲み会などのガヤガヤした場所では難発が出やすくなり、ほとんど人と話さずにお酒だけを飲むようになります。そのような時に、まさに「僕たちを見かけだけで判断しないで下さい。どうして話せないのかは分かりませんが、僕たちは話さないのではなく、話せなくて困っているのです。自分の力だけではどうしようもないのです。」という心情になります。
時々「やらないのは、やる気がないからだ」といった言葉を耳にしますが、本当にそうなのかなと思うことがあります。
東田さんの文章でもあるように、やらないのではなく、やれない理由があるのだと受け取ってほしいなと思います。そんなことまで他人に要求するのは、求めすぎていると怒られるかもしれませんが、それでもそのような気持ちがあることだけは受け入れてあげたいなと思います。
さいごに- 足りない言葉
吃音で上手く発話できずに相手に誤解されたり、言葉足らずで勘違いされることはあると思います。もちろん、マジレス(?)をすれば、吃音であれば、話し手が話し終えるまで待たなかった聞き手に問題がある。言葉足らずなのは、相手の知識や置かれている状況を把握できていなかった話し手に問題がある。といった具合で、それ以上言うことはなくなってしまうかもしれません。
しかしそうではなく、ある意味身勝手なように見えるかもしれませんが、そのような不完全な状態にユーモアを持たせることは素敵なことのように感じます。ユーモアと自虐の境界線はどこなのかなど、議論しようと思えば議論できますし、答えを求めることは可能だと思います。しかしそれでも、あえて余白を残すことは想像の自由を与えるという意味で有意義なのではないかとも思います。
今回は以上となります。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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