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ばあちゃんのアルバムは愛おしさで溢れていた


スマホの画面を前にして溜め息がこぼれた。

久しぶりに家族の写真を現像しようと思いアプリを開いたのだが、その枚数の多さに圧倒され、途方に暮れたのだ。

毎日何枚も撮っているので、こうなることはある程度予測していた。しかし何百枚もあるなかから、いざアルバムに収める写真を厳選するとなると相当な気合いが必要だ。わたしはずっと後回しにしてきたことを後悔した。

そんな時、母から着信があった。

「ばあちゃん、入院したけん」

一瞬にして身体が固まった。
ばあちゃんは、家でも酸素吸入するほど肺が弱っていて、これまで何回も入退院を繰り返してきた。先月も肺炎を患って入院し、つい1週間前に退院したところだった。ちょうど帰省していたわたしは、家に戻ってきたばあちゃんと過ごすことができた。そして、「また帰ってくるけん、それまで元気でおってよ」と言って別れたのはつい数日前のことだ。

詳しい病状を訊くと、今回は肺炎よりずっと悪い状態だという。母との電話を終えた後、わたしは何もする気になれずスマホを置いた。

どれだけ容態が悪くても、コロナで家族ですら付き添うことができない。お見舞いにすら行けない。ばあちゃんが入院するたびに込み上げる悔しさに、わたしはいまだ慣れることができずにいる。

人一倍寂しがり屋のばあちゃんは、大きな酸素マスクをつけて今ひとりで病院にいる...その姿を想像したら、泣けてきた。


ばあちゃんは認知症を患っている。家族や親戚のことはわかっているものの、曖昧な部分も多い。前回入院していたことも覚えていないし、ワクチン接種をしたことも数分後には忘れている。この数年で少しづつ記憶を失っていくばあちゃんの姿に、わたしは何度もショックを感じてきた。


ふと、以前ばあちゃんと一緒にアルバムを観たことを思い出した。

古いアルバムのなかには、亡くなった曾祖母と祖父がまだ元気だった頃の写真、独身時代の母やわたしたち孫の写真など、家族の歴史が詰まっていた。

今ほど認知症が進行していなかったばあちゃんは一枚一枚じっくり観ながら、それぞれのエピソードや付随する出来事を話してくれた。たった一枚にそんなたくさんの記憶が残っているのか、とわたしは感心した。そして、その記憶は驚くほど鮮明だった。

ばあちゃんは、何度も何度もアルバムを開いては思い出を振り返っていたのかもしれない。

「こんなにも家族の思い出を大切にしてくれていたんだ」

そう思うと、一枚一枚がとても大切な、愛おしいものに感じた。

ばあちゃんのアルバムに収められた写真は、わたしのスマホのなかにあるそれと比べてはるかに少ない。けれども、枚数以上の思い出が詰まっていた。思い出は写真の数に比例しないのだ。

わたしは、撮れば撮るほど思い出が増えると勘違いしていたかもしれない。

何かあれば、すかさずスマホをかざしてボタンを押す。そうやって溜まった膨大な量のなかから厳選して現像する。いや、結局厳選しきれないので現像する枚数もかなり多くなる。そうして仕上がった写真を眺めて、たくさん思い出ができたと錯覚する。後にアルバムを開いて振り返ることもしていない。記録ばかりしていて、思い出を記憶することを軽んじていたことに気付いた。

これからも写真を撮り続けるだろう。でも、ばあちゃんのように一枚一枚に思い出を込めることを大切にしていきたい。愛おしいと思える一枚を残していきたい。わたしは反省しながら、そう思った。

その後、ばあちゃんは回復しているという連絡をもらった。良かった。本当に良かった。これ以上ばあちゃんがひとりで寂しい思いをしないよう、一日も早い退院を願いながら今このnoteを書いている。

ばあちゃんが昔のことをどれだけ覚えているかはわからない、ほとんど忘れているかもしれない。それでも、また家族の思い出が詰まった写真を一緒に観たいと思う。

今度久しぶりに、ばあちゃんとアルバムを開いてみよう。


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