見出し画像

鷗外とその家族① 鷗外の妻・志けは本当に悪妻だったのか?

鷗外の二番目の妻である志けは、明治の悪妻と呼ばれ、その娘の茉莉は大正・昭和の悪妻と世間に囁かれていた。

気性が大変激しく、鷗外の生家の人々、特に姑と対立することが多かった志けは、その気の強さがたたって、鷗外の死後は世間から孤立してしまう。悪評が広まったのはそのためかと思いきや、真相は、鷗外が自身の結婚生活を下敷きにし、嫁・姑の確執を描いた小説「半日」を発表、世間の人が鷗外夫人に対して悪妻のイメージを持ってしまった、というのがそもそもの原因らしい。

確かによく考えれば、いくら明治の東京が現在より小規模とはいえ、気が強いという口コミだけで、市中にその名を行き渡らせるには無理がある。第一、性格の激しさで言えば、愛息・林太郎(鷗外)に英才教育をほどこして陸軍での出世街道を歩ませ、巷では賢母と知られた峰子も、自分の思い通りにならないと気の済まない人であったし(鷗外だってできれば文学一本でいきたかった)、鷗外の妹・喜美子も気骨がある反面、辛辣な皮肉を言い放つ人だった。ただこの二人は、本音と建前を相応に使い分け、世間的な名声も得ていた。志けという人は、率直な反面、自身の客観化には無頓着、世渡り下手な損な性格だったとも言える。

気が強く、物事には白か黒かしかなく、おべっかを使わず、愛想笑いの一つも見せない。そういう女の人が明治の世をうまく渡っていくのは難しかっただろう。生まれる時代が早かったのかもしれないし、同じ時代でも、パリ辺りに生まれていれば、案外なじんでうまくやっていたかもしれない。これは現代の話だが、フランスに行って、友人夫婦の家に滞在していると、些細なことから、子供達や私のいる前で派手なケンカが始まる。9割の勢いで押しているのは女の方で、言いたいことだけ言って、部屋へ引きこもってしまう。男は子供たちに優しい言葉をかけて昼寝をさせた後、私のもとへやってきて「ごめんね」という。そして、「僕が家にいると、彼女が嫌だろうから」としばらく姿をくらます。数時間経って、ほとぼりがさめた頃にそっと戻ってきて、仲直りためのディナーを用意する。女が食卓へおりてくることには、昼間のことはすっかり忘れてケロっとしている。そういうところへ生まれればよかったのだ、と思う。鷗外の子供達はいずれも欧州に渡り、自由で開放的な空気に大いに感化され、その感動を母に書き送っている。留守を守り、パリからの便りを何よりも楽しみにしていた当の本人は、そんなこと露ほども思っていなかったかもしれないが、志けも行けばよかったのに、と私は心底思う。

私が志けにヨーロッパの女性を重ねるもう一つの理由に、精神の独立性がある。女性の自立が叫ばれて久しいが、経済的な自立と精神の自立は別である。日本も経済的な自立は進みつつあるが、依存的な人、特に子離れできていない大人というのがまだまだ多いように思う。

志けは見合いの日に、舞姫の太田豊太郎にそっくりな19歳年上の林太郎に恋をした。その後約20年に及ぶ結婚生活を送り、夫が亡くなり、自身の最期の時まで「母は父を恋しつづけていた」と長女・茉莉は書いている。精神面だけでなく、現実面でも心から頼りにしていた鷗外が亡くなった時、茉莉は既に嫁いでいたが、その下の杏奴(あんぬ)と類は13歳と11歳だった。類は勉強ができなかったし、杏奴は女学校卒業後、一流の師匠について踊りに真剣に取り組んだが、途中で行き詰まってしまった。その後、茉莉が離婚して実家へ戻ると、それに腹を立てた元夫やその友人たちが、森家に関する風評を流布し始めた。人々がそれを信じたことで、もともと世間と繋がりの弱かった一家は、息をひそめるな生活を送らなければならなくなった。このまま若い二人の未来をつぶしてはいけない。現状打破のために志けのとった策は、二十歳を超えたばかりの杏奴と類をパリへやることだった。日本で将来の道が閉ざされてしまった以上、新天地で新たなチャンスを掴んで欲しい、と一縷の望みを託しての決断だった。

二年間の洋画の勉強に旅立った二人は、留学ではなく遊学で、お金があったからできたことだ、と思う人もいるかもしれない。しかし、この時志けは腎臓を患っていて、二人の留守中に亡くなる可能性もあった。ただえさえ社交が乏しいところに病身とあっては、その心細さは想像にかたくない。それを気丈に振る舞い「行っておいで」と送り出した志けは、なんと粋なことだろう。彼女の強い愛は、依存からは完全に独立していたといえる。

パリにいる二人へ送った手紙には、出発前には強がりすぎていた、と寂しさのぞかせるも、日本でじめじめとした青春を送るよりずっといい、と二人の門出と新生活を心から喜ぶさまが記されている。またパリからの便りにも、落ちこぼれだった類が真剣に絵やフランス語の勉強に取り組んでいること、日本のしがらみから切り離された環境で、新しい人間関係に恵まれていることなどがいきいきと綴られている。今なら毎日ラインを送りあうように、日課のようにやりとりされる書簡を読んでいると、二人がパリへ行って本当によかった、と志けの決断に拍手を送りたくなってくる。


志けの悪妻のイメージは現在まで引きづられているようで、ウィキペディアにある「森志げ」のエピソード欄を見ると、それはひどい記述である。ほとんどは身内から出たものだが、その選定と羅列にひどい悪意を感じる。それは確かにものごとをはっきりと言う、志けの一面ではあるが、全体を物語ってはいない。人は切り取る角度により、いかようにも見せることができる。

駄々っ子ような激しさを持ちながら、その強さで気丈に振る舞い、亡き夫の意思を継いで子供達を芸術の道へ進ませ、欧州へやったのもまた志けの一面である。私はそんな彼女の正直さに惹かれ、別の側面から描いてみたいと思ったのだ。

参考図書
ドッキリチャンネル (I) 森茉莉全集第6巻、ドッキリチャンネル (Ⅱ) 森茉莉全集第7巻 (森茉莉、筑摩書房)
晩年の父 (小堀杏奴、岩波文庫)
鴎外の子供たち―あとに残されたものの記録 (森類、ちくま文庫)
鴎外の遺産 1 林太郎と杏奴  (小堀鴎一郎, 横光桃子 編、幻戯書房)
鴎外の遺産 2 母と子 (小堀鴎一郎, 横光桃子 編、幻戯書房)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?