人類よ、今こそムーミンママを見習って雨の日に食器を洗うこととしよう。
ボランティアに行ってみようかなァと思って、前にそう言った類の記事を書いたことを思い出した。結果的にあの時はボランティア先でコロナが出ておじゃんになったのだが、今テレビで『子ども食堂』の番組を見ていたら再びそんなような気になってきた。高校時代はミッションスクールだったので(なんだかミッションスクールというと、ブラックウィドウを見た後はレッドルームを想像してしまう・・・)ボランティアはほぼ必須、高3の受験の時期だろうがなんだろうがお構い無しに『奉仕活動』という名前でもって老人ホームやら山谷やらに駆り出されていた。私はこの奉仕活動という言い方があまり好きではなかったが、山谷の炊き出しは好きだったのでいつも楽しみにしていた。あの時、出逢ったひとたちとのことは今でも忘れない。このことはまた別の機会に書くとしよう。その頃の私は本当に、今の何万倍も無知蒙昧で兎にも角にもそのままの状態でひとにぶつかっていた。喧嘩をふっかけるとか、そう言ったことではない。ただ、学校内でいわゆる先生の前ではいい子ぶるのに裏で悪口を言うだとか、誰かを陥れるために何かを画策しているだとか、そう言ったことが本当に苦手で怒ったりおかしいだのなんだの言ってしまい、気がつけばいつの間にかひとりになっていた。見てみぬふりをしていれば何事もなく過ぎ去るのに、全く持ってそれができなかった。わたしはただ、そういった損得やらなにやらのクダラナイやりとりよりも、いわゆる『ホンモノのコミュニケーションがしたい』と常々思っていたのだ。頭がお花畑かもしれないが、人間は、本当に愛し合っているならばきっと争うことなく、すっとお互いにそのままに共生できるはずだといつも思う。私が好きなトーべ・ヤンソン先生の描くムーミンの世界はまさにそれだ。みんながみんな、好きなことをし、好きな方向を向き、好き勝手喋っている。うるさい小言をいうひともいれば、病的なほど潔癖症のひとも出てくる。かの有名な孤独を愛するスナフキンのようなひともいれば、行き場のない悲しみを抱えたニョロニョロもいる。私はムーミンママに関するエピソードでお気に入りのものがある。何個かあるのだがそのうちのひとつがこれだ。ムーミンママは、いつも使い終わった食器を洗わずにソファの下に隠している。そうして雨がたくさん降る日に、一気に外で洗う。彼女のお友達に、フィリフィヨンカさんという超ド級の潔癖症がいるのだが、そのひとがお家に訪ねてきたときのことだ。フィリフィヨンカさんは自分の家のソファにビニールをかけ、食器も使い終わったらすぐに洗い、そうしていつも部屋を綺麗にするために動き回っている。お客がいようがなんだろうが関係なしに、兎にも角にも身の周りが汚れることをひどく嫌う。そんな彼女がムーミンママの家に招待され、まず、家の真ん中に大きな木が生え、天井を貫いていることに度肝を抜かれる。『衛生的にこれはどうなの・・?』と頭を抱え始めるのだが、ここからが見ものだ。彼女はそのまま家をぐるりと一周し、睨め付けるようにムーミンママの"作品"をチェックしていく。そうして一息つこうとソファに腰掛けた時のこと・・・ガッシャーーーーン!!!という大きな音とともにフィリフィヨンカさんは床にひっくり返ってしまう。一瞬、何が起きたかわからない彼女だったが、ソファの下に隠された秘密を知り、恥ずかしさとショックとでパニックになってしまう。『あなたね、こんなところに洗ってもいないきったない食器を置いておくなんてどういう神経をしているの?!?!?!私の友達なら少しは私を見習ったらどう!!!!!!』そんなようなことを言ってムーミンママをほぼ恫喝に近い形でまくし立てる。しかしながらフィリフィヨンカさんの小言にうんざりしていたムーミンママはこう続ける。『あら、そうですか。どうして、だって明日にはまた雨が降るんですよ。そしたらこのお皿たちもみ〜んな洗って、綺麗になりますからね。そんなにうちが気になるようでしたらすぐに帰ってもらってもいいんですよ。』結局フィリフィヨンカさんはそのままムーミン家を後にし、ムーミンママは少しばかりホッとする。しかしながらこの話はここで終わりではない。ムーミンママは半ばうんざりしていたので色々と言ってしまったが、それでも自分自身の言ったことを少し気にしていたのだ。『あんな風に言ってしまったけれど、彼女と私は観点が少し違うだけで悪気はなかったわけだし、私はやっぱり言いすぎたのかしら・・・。』ムーミンママは優しい。優しくてたくましく、いわゆるいい女だ。巷ではいい女になるためのメソッドや啓発本、セミナーで溢れているが、正直私はこのいい女商法があまり好きではない。いい女は作られるものなのか。というよりも、いい女かどうかよりも、やはり相手のことをいかに考えられるのか、そしてそれは同時にお互いを受容していくことでもあり、ただありのままにそこに存在することを喜ぶことだけなのではないかと思う。喜ぶ、と書くとなんだか仰々しいのでニュアンスが異なるが、いわゆる"存在給"みたいなものなのではないかと思う。私は共感覚にまみれた人間だ。総ての感覚が、繋がっている。数字も色も、声も音も絵も、そして踊りも写真も味も、日常のありとあらゆるもの、何もかもがそうだ。いつも頭の中に音楽と、そして映像が流れている。色が溢れ、そうしてそれが混じり合い、どこか遠くだったり近くだったり、はたまた夢の中や闇の中、光の中へ途切れ途切れに舞っていったりもする。だからこそ、殊更に思うのだろうか。ひとや動物、植物、総てのいわゆる万物たるものは色が溶け合うようにきっと、愛し合いたいのではないかということを。人類よ、戦争なぞしている場合ではない。今こそ、今こそお互いに愛し合おうではないか。暑苦しい真夜中テンションをどうかお許しください。
MINAMI Stevens Photography
あなたとわたし、2人は出逢えた。光と闇で、絵を描きます。
あなたの物語、聞かせてください。
コトバと写真で、残します。
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