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雑記: 講演 #1 | マルクス・ガブリエル@安田講堂 240828

noteに載っていた早川書房さんの講演会予告。
物々しいお題目が付けられ いやが上にも盛り上げられています:

ハヤカワ新書『倫理資本主義の時代』刊行記念
マルクス・ガブリエル来日特別公演
「なぜいま、倫理資本主義なのか」

タダより気楽なものは無し、とばかりに 申し込みましたが
著作はちゃんと読んでないし、ドイツ語の授業で読んだSpiegelのインタビュー記事や NHKの演出効きすぎドキュメンタリーでちょろりと語るのを見た知識のみ。
浅くしか知らないが故か、彼の主張には響くものがなし。。。

それなのに 「う~ん仕事の都合が許せば野次馬根性で行こうかなぁ」程度の浅い動機が ミーハーで恥ずかしい。。。

でもね、一般論ですけど、そこで高を括るのが精神的老化の始まりじゃないか、と思うんです。
生き死にに関わるほどの重要事でないことだったら、結果が期待値に満たなくとも 損と思わずに済む気持ちと時間の余裕がありさえすれば
腰を上げた場合に得られる利得の方が 座って過ごすよりきっと高いでしょう。

この程度は過去の経験から想像できるさ、なんて、脳内だけで決め付けずに足を運べば、他人が編集した記事や動画には無い想定外が得られるかも。
好奇心旺盛なほうが日々を楽しく過ごせるかもしれませんからね。

ということで
南方の台風が影響したか やや涼しめの葉月の末、根津駅からの登り坂を汗をかきかき 安田講堂へ。

改修後の講堂内部

講演記録はいずれどこかに載るでしょうし 丁寧な逐語メモを残すつもりもありませんでしたので
通訳レシーバを介さず聴いたマルクス・ガブリエル氏(以下MG氏)とパネリストの言葉を 厳密な時系列には沿わずに 記憶から再構成し 以下の備忘としました。


第一部 講演 (45分)

MG氏

資本主義はきっちり定義されたシステムでなく "loosely band (bound?) connection."  部分/要素の結びつきで成り立っている。
誰かが定義したのでなく 歴史の流れから自然に発生した。

「資本主義はそもそも良くないもので 破壊すべき」という意見のひとが(誰とは言わないけど)日本にも見られるが 良さも含めて破壊してしまうのは遺憾。
例えば封建主義への対抗概念としての資本主義は 契約という行為を通じて 個人の能力を解放したでしょう?
資本主義は「悪」という人がいるが 正しくは「危険。」
プーチンは「危険」ではなく「悪。」
資本主義の良さを認識すべき。

倫理とは人に無条件に備わっているもの。
例えばこんな思考実験をしましょう:
プールサイドを通りがかった時に目撃した 溺れる子供と (手元の)冷えた缶ビール。人はどう行動する?
どちらに価値があるかは自明。人は当然子供を助け ぬるくなったキリンビールの損失なぞ気にならない。
子供といっても ライオンの子なら助けないかも知れないが。
こういった ”moral facts" は "universal" なものである。
モラルに従って動けば それを更に助ける連鎖がひとりでに作られる。
プールサイドで子供を助ける人を、さらに別の人が助ける といった
”Chain of mutual help.”

倫理が資本主義を制御する手助けをする。
モラルなき会社は今後十年ないし数十年で存在しなくなる。例えばTesla。Facebookは(一連の騒動で)Metaに屋号を変えざるを得なくなった。
逆に社会的評価が高い企業として ドイツのDeepL社が挙げられる。

イーロン・マスクなどの億万長者の稼ぎは 1000億ドルだの3000だのというただの数字でしかない。それは物価高と収入減に苦しむ庶民の生活には影響を及ぼさない。

問題なのはEurocentric/ヨーロッパ中心主義な思考の枠組みが世界にあること。互助的な思考や環境/自然を守る考え、それは日本の社会が根源的に備わっているものであり、聴衆の皆さんにとって違和感はないでしょう。
日本以外には(フランスや?)南米の国々にもそれがあります。
これに反し 例えばドイツにはそんな互助的な考え方は根付いていない。
その意味で日本社会はいまのままでよし。
Kyosei/共生という言葉に重要性が示されている。
特に ”共” がポイント。

企業の評価指標に その企業の倫理的価値を示す指標が加われば 世間が企業を評価する視点が現在のそれと変わってくる。

第一部 注記:
思ったより早く45分が過ぎました。
平易な英語だったので 人名などの幾つかの固有名詞を除き概ね理解できた反面 語られた内容が平易過ぎて食い足りないと感じた聴衆は多かったのではないでしょうか。
無料の講演会に集う自分のような物見遊山の輩を相手に 本格的な倫理資本主義のなんぞやを語ったところで理解できますまい という読みが背景にあったのかもしれませんね。

*  *  *

第二部 ディスカッション (60分)

パネリスト 哲学者/中川隆博氏:
”Moral fact" を 現実とどう繋ぐか?
過去にカントもそれを整合できなかった。
溺れる子供の寓話は孟子でも有名だが 他人を助ける人をさらに助ける姿は人間に根源的に備わっている。
ドイツ語の Volksreichtum、英語の popular wealth、日本語でいう「民富」は
経済学では議論されないが "crucial band of mutual help" である。

MG氏:
カント自身 Eurocentric/ヨーロッパ中心主義に根ざしており、de-moral/モラルを欠いているのが現実。ここでまた ”共生” に戻るが 車に喩えれば 燃料と電池のHV(ハイブリッド)カーのような考え方、compromiseが重要。
日本には美味しいみかんとゼリーを組み合わせたものがありますよね。

パネリスト 文化人類学者/小川さやか氏:
ドナルド・パフの著作に ドーキンズの『利己的な遺伝子』を敷衍したものがあって 脳はDNAと異なり利他的と見做されるそうです。
*おそらく ↓ この著作でしょう。

アフリカ(の研究者界隈)では Ubuntu の考え方が流行してるんですよね。
*以下 Google Search Labから引用:

Ubuntu(ウブントゥ)は、南アフリカで使われるズールー語で、日本語に訳すと「あなたの中に私の価値があり、私の中にあなたの価値がある」という意味です。アフリカの原住民の言葉で、「あなたがいるから私がいる」という意味もあります。
Ubuntuは、人間は不完全であることを前提として、「自立や個性を至高のものとせずに、人と助け合って生きなさい」という教えを意味します。謙虚さと感謝をもって周りの人と共に生きることを大切にし、他者との関わり合いの中で生きる存在とみなした上で、社会的な調和の実現を重視する考え方です。

Linuxのいち派閥もここから命名されたんですね

それなのになぜ 資本主義は今のような姿になっているんでしょう?

MG氏:
ドイツ語の言葉にこういうものがある:
”Es gibt nichts Gutes, außer: Man tut es.”
(行動を起こさなければ 良い事など起きはしない。)
*以下に 関連記事を見つけました。
 ケストナーの『Moral』というポエムの中の一句だそうです。

億万長者は映画館のような庶民の集まる場所には足を運ぼうとせず 自分達だけの閉じた世界に籠り 高級クルーザーへと向かうことになる。
Trickle-down/トリクルダウンは自然には起きず 制御しなければ機能しない。

第二部 注記:
パネリストの皆さんがそれぞれのご意見をMG氏に問いかける体裁だったので 第一部に比べてMG氏の発言量は少なく、結果として自分のメモは 論旨が繋がらずとりとめのない記述に堕してしまいました。
わざわざ書き置くまでもなかったなぁ。。。。。

小川さやかさんはとても饒舌にアフリカのフィールドワークなどで得られた経験を述べられてましたが MG氏への質問というより やや一人語りが長かったような。。。
ですが 引用されたお話はどれも面白く 着眼点は参考になりました。


まとめと感想

結局 こちら ⇣ で紹介された『倫理資本主義の時代』/「はじめに」を読めば MG氏の主張が(自身が語ることで)正確且つ濃く 論旨展開もバッチリ把握できそうですね(なぁんだ。。。。)
ミーハーな記憶の再構築とは見事に異なり 明快です:

個人的に肚落ちしない論点は 例えば以下です:
モラルを企業評価の共通指標にする場合 モラルのベクトルが異なる企業/集団同士がどのように基準を設定し折り合うのか?
人間に予め備わったモラルは 果たして全ての人類が共通の価値だと見做せるのか?
 
それらもおそらく 著書のどこかに書かれている、んでしょうね。。。。

有名人見たさで集まった自分のような聴衆向けに 導入留まりの浅いお話を提供してくれるのなら、 代わりに 敢えて著書からは離れ MG氏の趣味、興味関心、フィールドワークでの思い出などを語って貰った方がイベントとして意義深かったかもしれませんね。
それだともはや講演の体を成しませんが さわりに終始する45分間では コアなファンには物足りないでしょう。


最後に

スピーチの冒頭の主催者や関係者への謝辞を流暢に日本語でこなしたMG氏、第二部/質疑応答のセッションではコメンテーターが話す日本語を 頷きながら聴かれてました。
パネリストの中村隆博さんと懇意にされているようですし 少なくはない訪日経験とフィールドワークなどで鍛えられたであろう日本語は 日常会話程度なら問題ないレベルとお見受けしました。
自分のドイツ語より明らかにまとも。。。

通訳レシーバー配布カウンターの隣には MG氏のサイン入り著書を求める列ができてました。
日本を含むアジア各国でのフィールドワークで培われた東洋文化への造詣の深さを身近に感じるファンも多いことでしょう。
この行列に転売ヤーが紛れていたとしても それを非難するのはお門違いだし そんな属性こそが資本主義下の経済活動の一側面だと思われますが 彼らのモラルについてMG氏にご意見を伺ってみたいところです。




<おまけ>

斎藤幸平氏(以下KS氏)がMG氏に著書の解説を依頼されたけど、ズケズケ書きすぎて(あろうことか堂々と否定的見解を提示して)結局 掲載をお断りされたという いかにもな逸話を何かで読んで大笑いしました。

わははは

”掲載NGを食らった” のは これ ⇣ ですね:

ドイツ語で哲学し、出版された著書はドイッチャー記念賞を獲得してしまう 卓越したKS氏のドイツ語運用能力には溜め息が出ます。
私のような小物は 氏の稀有な能力を崇めたくなりますが 掲載NGの件のように 一般の対人関係では外すべきでないプロトコルをあっさり逸脱するなんて 理解できない ス ゴ す ぎ。。。

因みに 今年のフランクフルトブックメッセでは『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリ氏と対談予定(=メインイベント)と KS氏のXにありますね。
日本の産んだ「哲学界のスター」も MG氏の人気に引けを取らない感じです。

人新世 読みましたよ

しかし、、、
KS氏の主張は 現実味という点で残念ながら自分には肚落ちしないんですよね。一冊読んだ程度だからなのかは知りませんが。
例えば 獣性丸出しの人間達が 国の体を成し ルール無用で隣人を喰って生きようとするのも世の中の一つの実態なわけですから(=ウクライナ及びガザで起きていることのように)、 脱成長に成功する国家が 隣国の脅しに対し具体的にどう抗う事ができるのか、いやできるはずがない。。。

その点 KS氏もMG氏と同類であり 瞬く星々の波動は 俗な感性では検出できない のかもしれません。


追補 240902
浅〜くしか理解してませんでしたが ドイッチャー記念賞は 英語で発表された新たな本 を対象とするんですね。ドイツ語の本が対象だと思ってましたが国内/DACH圏に限定せず国際的な書籍を評定するためなのでしょう(今更 知りました。。。)


<続・おまけ>

暑いし急いでいたんで 超カジュアルな格好で自宅から駅に向かったんですが
新日本プロレスのでかいロゴ付きTシャツを着て聴講してる酔狂な輩は自分だけだったでしょう。
会場にはTVカメラも入ってたから 局が聴衆の多様性をアピールするのに使えそうな素材を 我知らず提供してましたね(=使わないって。。。。)

隣席のおばさまから「コイツ何しに来たのよ??」と冷えた視線が注がれてたかもしれず 今頃 ちょっと恥ずかしい。。。。。

でも派手すぎないデザインでしょ



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