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どっちつかずで年を重ねる (月曜日の図書館157)

中学生のころは、本が好きだということは秘密だった。
少し前まで定期的に警察が出動するような学校で、だいぶ荒れは治まっていたものの、まだまだ勉強やそれに類することに打ちこむ者を否、とする空気が充満していた。

勉強するということは、大人の言うことに黙って従う愚か者。
本を読むということは、流行や生身の人間との交流を楽しめない不適応者。

ただでさえテストの成績がよかったわたしは、本が好きなどと言ってこれ以上悪目立ちするわけにはいかなかった。

今、過去にタイムスリップして中学生の自分に会えるなら、そんなアホなこと考えるな、と言う。好きなことを好きと言うことは罪でもなんでもないし、たかだか数百人のコミュニティの中に理解者がいなくても全然気にする必要はない。
わたしにだけじゃない。周りの中学生たちにも、そんな窮屈な生き方するなと言いふらす。
当時すでに大人だった先生たちは、そんなこととっくに知っていたのに、どうして教えてくれなかったんだろう。あるいは話を聞かない子どもだったから、肝心なところを聞き逃したのかもしれない。

そのころは重松清の小説をよく読んでいた。『ナイフ』、『きよしこ』、『エイジ』。自分ではどうすることもできない不条理な環境で生きている十代の気持ちを、当時すでにおじさんだった重松さんが「理解」してくれている、というのが救いだったように思う。

本は疎まれても、漫画の貸し借りはよくされていた。すえのぶけいこの『ライフ』をクラスの女子たちが「これはやばい」と興奮しながら読み合っていたのを覚えている。いじめられている人の物語を、いじめる側の人間が消費していることに戦慄した。

この作品だけじゃない。このころには『ONE PIECE』もすでに世に出ていたはずだ。登場する「ふつうじゃない」人たちのことを「泣ける」「元気をもらえる」と言って応援しつつ、一方で現実では少しでも周りと違う人がいたら全力で拒絶する。ちょっとおかしいぞ、わたしもおかしいのかもしれないけど、社会の側が絶対的に正しいってわけでもないみたいだぞ、と気づくのは、残念ながら大人になってからだ。

隠れキリシタンのような読書生活は、図書館への就職とともに終わりを迎えた。と同時に、本を読んでいることが当たり前という価値観の大転換が行われ、大いに戸惑った。

何しろ隠れて読んでいたのだ。図書館のヤングアダルトコーナー(この名前だけで足がすくむ)を堂々とうろつくなんてことは許されていなかった。同僚と昔読んだ本の話になって、いわゆるテッパン本を自分がほとんど読んでいないことに愕然とする。ゲド戦記も、空色勾玉も、数々の名作ライトノベルも、素通りして生きてきた。かろうじて十二国記ならちゃんと読んでる。めちゃくちゃ面白いよね、あれ。

図書館で働きはじめて、本を読む人はそれが当たり前になりすぎて、ともすれば読まない人が存在することさえ忘れがちであるということがわかった。一方で、読まない人にとって本は近寄りがたく、自分の人生には関係のない、そしてやっぱり不適応者になじみ深いコンテンツというイメージが根強くある。

両者の溝は埋まることもなく、平行線をたどるしかないように思われる。こういうときは、どちらの気持ちもわかっている(?)わたしが橋渡しをしたらいいような気もするが、なかなか難しい。いや、やりたい気持ちはすごくある。けれど何しろテッパン本は読んでないし、不適応者なので、今のところ目に見えるほどの成果は出せていない。

学校に朝読の時間が導入されたのはいつからだっただろう。テスト中のように静まり返った教室。サボっている生徒がいないか、先生は教室の中をぐるぐる回っている。この時間だけは「本に向かっている」ことが多数派だったから、違う動きをする人はいなかった。本を忘れてきて、仕方なく国語の教科書をめくっていた男子の、所在ない背中を今も覚えている。

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