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囚われて身動きができない


少々怖めのタイトルですが、私が今回話したいことは、無意識のうちに支配されて勝手に生きづらくなってしまうことがよくあるということ。
無意識のうちに侵されることほど怖いものはない。


現代人の生活には欠かせない、スマホとSNS。
「メール」のやり取りは「LINE」に変わり、アプリを使った通話なら通話料金を気にせず長電話もできる。高画質な写真や動画を撮影のみならず鑑賞もできるし、写真をプリクラ並みに盛ることも簡単。
さらに、音声認識で文字を打たなくて済むし、道案内も様々なルートや方法で提案してくれる。便利すぎる。

SNSも著しく発達している。Twitterはガラケー時代から存在していたとはいえ、その時代よりもはるかに多くの国や地域の登録者がいて、個人で使用するのはもちろん、ビジネスや政治的広告にも使われている。
そして2010年、Instagramがリリース。現在10憶人を超えるユーザーが使用していて、Facebookの次に登録者数が多いSNSだ。
日本でも「インスタ映え」という言葉が流行したほど。海外では「instagrammable」という言葉が同じような意味で使われているらしい。(インスタ映え程の認知度があるかはわからない)


このSNS(特にTwitterとInstagram)が私の生活の中で必要以上に干渉してくる時がある。

私のTwitterのタイムラインには海外アーティストやユーチューバーのツイートが若干多めで、他はフォローしている人がいいねやリツイートしたもの、友人のツイート、好きなカルチャー(ミュージカルやKPOP)が同じくらいの割合で表示されている。
ここまでならまだいい。娯楽の範囲内だ。
私は自他共に認めるフェミニストであり、反人種差別主義者(6月にはBLMのデモ行進にも参加した)でもある。よって、関連の記事や心無いツイートを目にするたび心が痛むし怒りに震える時がある。
時には「クソリプ(見知らぬ人から的外れな、不快な返信が来ること)」をもらったこともある。
Instagramに関しては、友人のキラキラ投稿と自分の生活を比較して落胆したり、友人達の投稿に疎外感を感じて悩んだりしてしまった。
本来私のルールならば、日々の記録を投稿して楽しむはずなのに。


このような状況の中で疲弊した時に、とある本の中でSNSについてこのように書いてあった。
他人の生活を覗き見すること

これだ・・・と思った。
つまり私は他人の生活を覗き見することで自分の人生の時間を費やして、無駄な感情に翻弄されている。
全く豊かな生活じゃない。むしろ貧しい生活をしているのではないのか。

私の友人の中には、全くSNSをしない人がいる。
その子が今どこで何をしているのか知らないし、その子も私がどこで何をしているのか恐らく知らないだろう。

一体どんな生活なのか。SNSを使用しない生活は。
気になった私は、ちょうど7月の連休を使ってSNS断ちを体験してみた。
TwitterとInstagramをホーム画面上で見えないように配置して、無駄なことを考えず、私のことに集中してみた。


結果、確かに楽になった。時間と気持ちに余裕が出た。
そしてその間に更新されていた投稿が、私の人生にそれほど重要な意味を持っていなかったということが分かった。
わざわざチェックしなくても私は楽しく生きていた。
言語化するのが難しいけど、SNSは「今」しか重要視されないうえに、絶えず更新されていく。
SNSの過剰摂取はその部分を見えなくさせてしまう。
それに、夢にSNSをいじる自分が登場したくらい、依存性は高い。


今も緩めにSNSを断つことを続けている。やはり好きな有名人の投稿を見たり、現代を追うツールとしては使い続けていきたいと思う。
ただし、SNSの過剰摂取によって、他人の人生に囚われ身動きが取れなくならないように気を付けていきたい。

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