新しい価値観の受け入れ方

新しい価値観を知ったとき、あなたはどんな反応をするだろうか?
新しく知った価値観の内容によって反応はさまざまだろうが、一般的には、若い人はわりと簡単に受け入れ、年を重ねれば重ねるほど受け入れられなくなっていくと言われている。
「これだから今時の若者は」と年配の者は言い、「これだから老害は」と若者は言う。
そこには大きな隔たりがある。
この隔たりを少しでも減らすには、どうすればいいのだろう?

たとえばLGBTやオタク文化は、10年以上前までは、まだマイナーな価値観だった。
マイナーな価値観は、まずは笑いをとることで、周知されることを図った。
まずは親しみやすさをもってもらい、身近に感じてもらうことで、受け入れられようとするのだ。
LGBTはバラエティ番組で笑いのネタにされたし、オタク文化も一時ドラマになったりと 話題を集めた。
最初は存在すら ないことにされていたからこそ、必死に まずは知ってもらおうと、自己犠牲する。
「存在する」ということをある程度周知させた後(だいたい10年くらい経った頃から)、「差別は良くない」と言う声が大きくなっていく。
それは、「もう笑われるのはたくさんだ(もう差別されるのは我慢ならない)」という限界の叫びにも近い。

「笑い」の段階では、それを拒絶する人は少ない。
しかし、いざ真剣に「差別はよくない」と声にすると、拒絶反応を示す人が ぐんと多くなる。
とは言え、配分としては 2:6:2=反対:どちらとも言えない:賛成 くらいの割合だろう。
(年齢で分けたら、もっと割合は変わるだろうが)
「どちらとも言えない」の中には、「どちらかと言うと賛成」と「どちらかと言うと反対」が含まれる。
しかしこれには、どちらにも「自分に関係がなければ賛成」というニュアンスが含まれているのだと、私は考えている。
また、どちらも「よく知らないから、なんとなく賛成・反対」と言っていることも多いだろう。

価値観の内容によっても、受け入れられやすさは全然違う。
それは、小さい頃から身近に感じてきたかどうかの違いだろう。
たとえばアニメのオタク文化は、もうすでに受け入れられていると言っても過言ではない。
日本の新たな産業であり、それを政府も認めている。
イジメの対象の一つにもなっていたアニメ(オタク)の文化が、なぜここまで受け入れられたのか?
多くの人が、小さい頃からアニメに触れてきたからなのではないだろうか。
小さい頃、アニメを見て育った人は多いだろう。
テレビがない時代にも紙芝居や絵本など、絵を用いた物語はたくさん生み出されてきた。
だからこそ、若者から年配まで……ひいては世界中で受け入れられたのだ。

一方 LGBTは、「笑い」として頻繁に扱われ始めたのすら最近だと言える。
私はまだ20代だが、高校生になるまで、存在すらほとんど知らなかった。
今でこそIKKOやマツコ・デラックスなどの 多くの有名芸能人の活躍によって知れ渡ったが、その前までは美輪さんや美川憲一くらいしかいなかったのではないだろうか?
(詳しくないので正確ではない)
そもそも美川憲一もLGBTなのか、よくわからない。
社会的にもLGBTは「その程度の認識」だったのだ。
実は10人に1人はLGBTだと言われる時代……にも関わらず、アニメと違って身近に感じられないのは、みんなが上手に隠すからだろう。
極端に言えば、アニメはアニメという文化があるだけ(趣味なだけ)だが、LGBTはその人を形づくるものだ。
だからこそ、人は より上手に隠そうとする。
それを否定されたら生きていけないとすら感じられるのだ。

それでも最近の子は、自分がLGBTであることをオープンにする人がかなり増えているらしい。
インターネットによって、よりLGBTが身近になったからとも言えるだろう。
だからきっと、今の小学校低学年の子たちからしてみれば、LGBTは当たり前に存在するものとして認識されていることだろう。
その子たちが大人になる頃には、LGBTが存在することを 当たり前に受け入れる子が多いと思う。
むしろLGBTを受け入れてない子の方がマイナーになるかもしれない。
もしかしたら その子たちが大人になる頃には「彼氏」とか「彼女」とかいう言葉も、べつの言葉に置き換わっているかもしれない。

つまり、新しい価値観を簡単に受け入れられるか否か というのは、その人にとってその価値観が「身近かどうか」ということに関係しているのだ。
当然、年配の者にとってLGBTは「遠い存在」だ。
だから存在すら受け入れられない人が多いのも頷ける。
しかし、そんな頑固な人間ばかりでないことも、私は知っている。
となると、「存在は認知したけれど、受け入れられない」という人と「自分に直接関係がなければ、受け入れられる」という人が、最も多いのではないかと予想する。
「自分に直接関係がなければ」というのは、けっこう厄介だと思う。
たとえば自分の子供がLGBTだったとき……どう反応するか わからないからだ。
なかには「受け入れようと努力してるけど、体が拒絶反応を示して受け入れられない」という複雑なパターンが出てくる。
(『きのう何食べた?』に出てくる主人公の母親のように)

そうなったとき、極論では語れなくなってくる。
つまり、単純な「賛成」「反対」の話ではなくなってくるのだ。
私は「賛成・反対」の話になると、なんとなく「正しい・正しくない」の話にすり替わってしまう気がしてる。
でも本当は、世の中に存在する価値観に 正しいも正しくないもない。
「そう思ってしまう・感じてしまう」ことは、どんなに正論をぶつけられようとも、なくすことはできない。
だからこそ、私は【なぜ?】が必要だと思う。

「なぜ、私は賛成なんだろう?」
「なぜ、私は反対なんだろう?」
「相手が」というよりも、大事なのは「私は」だと思う。
自分の子供がLGBTだとわかって、体に拒絶反応が出たとき……「なぜ、私は拒絶しているんだろう?」と考える。
この「なぜ」は、決して自分を責める言葉になってはいけない。
「なぜ私は理解してあげられないんだろう?」となると、自責がメインになってしまうからだ。
そうではなく、シンプルに自分の心に問うのだ。
「なぜ私は拒絶してるんだろう?何がそんなにも嫌なんだろう?」と。

その問の答えがわかったとき、少しずつ相手への理解が深まることもあるし、あるいは相手ときちんと境界線を引くことができるようにもなるだろう。
自分の持っている感覚や価値観を相手に押し付けることなく、けれども自己否定することもなく、自分らしくあれるようになる。
「自分は自分、他人は他人」を、本当の意味で出来るようになるのだ。

相手があまりにも主張してくるならば「なぜそう思うの?」と、とことん聞いてあげればいいのかもしれない。
「なぜ?」と問われると、人は必ず 考えてしまう。
考えるペースは人それぞれだけれども、必ず考えてしまう。
「なぜ?」と聞かれた直後はわからなくとも、ふとした瞬間「なぜだろう?」と改めて考えることもあるだろう。
それが、お互いの理解につながるのだと、私は思う。

新しい価値観を 自分一人が拒絶したところで、世の中は変わっていく。
世の中の流れを、人間一人がどうこうすることはできない。
受け入れなければ置いていかれるだけだ。
けれど、ただ置いていくことだけが正解ではないだろう。

いつか自分も新しい価値観を受け入れがたいと思う日が来るのだと 最近実感して、そう思った。

最近で言えば、環境問題によるビーガンの流行だったり、「大人の発達障害」という言葉の誕生だったり……自分が、そういう新しい価値観についていけなくなっているのに気づいた。
「人工の肉とか絶対食べたくないよ」とか思ってる。
「発達障害がそんなにたくさんいるわけないだろ」とか思ってる。
大人の発達障害については、毒親問題の勉強をたくさんしてきたからこそ……というのも一つの原因だ。
親から不適切な育て方をされると脳が萎縮して、発達障害と ほとんど似た症状が出る。
だから 大人の発達障害の多くは 本当の発達障害ではないのだと、私は思ってしまう。

だから「なぜ?」と自問自答した。

ビーガンが行き過ぎると、売られるのが人工の肉ばかりになって、今普通に食べられている肉が高級品になるのではないかと心配している。
実際、昔は日本ではクジラが一般的に食べられていたのに、今では高級品になってしまった。
それに人工のものに良いイメージがない。
最初は言われていなかったのに、結局今だって、無添加が良いとか自然由来が良いとか言われている。
人工肉だって、いずれ「やっぱり自然由来のものが一番」って言われるのではないかと思っている。
だったら最初から、ずっと自然由来がいい。
少なくとも、人工肉が体にまったく害がなく、健康にも良いという結果がわかるまでは 受け入れられない。
つまり、人工肉が日常的に食べられるようになってから50年くらい経たないと安心できない。

大人の発達障害については、まだ上手く言葉にできないが、できないなりにしてみる。
発達障害は生まれつきのもので、治ることはない。
身近に発達障害グレーゾーンの人がいるから、そのつらさが理解できる。
どんなに良い環境に恵まれたとしても、不自由さを感じるのが発達障害だと思う。
本当に発達障害かどうか、きちんと見極めることもせずに「自分は大人の発達障害だ!」と考えるのは いかがなものか。
環境が良くなっても なお、不自由さがあるならば、その時初めて本当の発達障害だとわかるのではないだろうか。
だから最初から発達障害だと決めつけるのではなく、他に原因はないのか 検討すべきだと思う。
実際 私自身が毒親問題を克服したことによって、かなり生きやすくなったから。

……けれども、一方で「自分の症状に名前がつく」ことが救いになるのも知っているから 難しい。
しかも、親に不適切な育て方をされた人と 本当の発達障害が、とてもよく似た特徴を持つならば、それは新たな発達障害として認識すべきなのではないだろうか?とも思う。
元来の意味とは違うかもしれないが、「発達の障害」というくらいなのだから、親から不適切な育て方をされたことも「発達の障害」なのではないだろうか。
感覚的には受け入れがたいが、真っ向から否定することもできない。
「自分は大人の発達障害だ」と思うことによって、さまざまなテクニックを身につけたり、まわりの人に助けを求められるようになるならば、それはそれで良いのだから。

理性は「受け入れよう」と訴えているが、感情がついてこない。
なぜだろう?
私は自分自身の経験から、なんの努力もせずに、ただ障害のせいにしようとしている人を見るのが嫌なんだと思う。
「なんの努力もせずに」という人は、かなりの少数派だとわかってるのに。
誰もが必死に生きていることを頭では理解しつつも、体にまで落とし込めていないのだと思う。
安易に障害のせいにしようとする考え方だと無意識下で思い、気に食わないのだろう。
それは 自分が命がけで努力してきたと自負しているからこそ、でもあるのだと思う。
自分が命がけで努力してきたからこそ、他人にもそれを強要しようとしてしまっている。
もし命がけの努力を避けられたのだとしたら、本当は私もそうしたかった……という羨望の裏返しなのだ。

これらのことを踏まえて、少しずつ体に落とし込めるようになれればいいと思う。
少なくとも 頭(理性)は「受け入れたい」と思っているのだから、時間をかけて ゆっくり体に落とし込めばいい。
急がなくていい、焦らなくていい。
私は今までもずっと、なかなかついてきてくれない感情を、理性で引っ張ってきた。
また同じことをするだけだ。

きっとこの先も、新しい価値観はいろいろ出てくる。
「いつまでも若いまま」なんて思いがちだけれど、時代の流れに、あっという間に置いていかれそうだ。
そのたびに、かたくなに否定するのではなく、一度立ち止まって考え続けられる人間でありたいと強く願うばかりだ。

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