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読書日記・浅い人間は、浅く読む

8月6日(日)

予定していた行事の日にちを間違えたので、さてどうしたものか…と思案していたら息子が「公園に行きたい!」と言い出したので、ちょっとだけのつもりで炎天下だけど公園へ。少しだけ走り回った息子は「こんなに暑いのに何で公園に来たの?」とちょっとキレ気味。君だよ?君が公園へ行きたいって言ったんだよ???と伝えたら、「僕がやりたいって言ったからって、何でもかんでも言うことを聞かなくてもいいでしょ!」と怒られる。意味がわからない。

読んでいたのは、近藤康太郎さんの『百冊で耕す』

 本は、答えが入っている箱ではない。読書とは、問いを、自分で言葉にできるようにする、遠回りの、しかし確実なトレーニングだ。問う筋力をつけている。自分の問いのほんとうの意味が、分かる。本ににじりよっていくうち、自分の言葉で、問いを表現できるようになる。正しく問うことができて初めて、暫定的な答えが現れる。

『百冊で耕す』より引用

本には何かしらの答えがあるんだと思っていた。だから本に書かれている文章をそのまま信じてしまうことが多々あったんだなぁと、今までの自分を振り返ってしみじみとした。


8月7日(月)

またもや歯科。今日の治療はとっても痛くて涙が出るかと思った。この痛みは自分がまいた種なわけで、自分が虫歯にしなければ体験する必要はなかった痛みなんだと思ってみたものの、自己責任というのは時に耐えがたいのよね、なんてことを考えていた。まだ治療が終わらない。いつまで痛みに耐えればいいんだ(自業自得)。

相変わらず『百冊で耕す』を読む。

本を読んでみても、さっぱり意味がわからないことって結構ある。私の読解力というか、そもそもの知識不足というか、すべては自分の問題なんだけど、どうしたら難しい本を読めるようになるだろうか、と思ってしまうことが結構ある。

 そもそも、世の中に分かりやすい文章、やさしい文章など、ない。分かりやすい文章とは、読者が分かる範囲で読んでいるだけだ。やさしい文章とは、読者が自分のレベルに引き下げて、やさしく読んでいるだけなのだ。
 文章を読むという行為には、読者の人格そのものが現れる。怠惰な人間は、文章を怠惰に読む。浅い人間は、浅く読む。

『百冊で耕す』より引用

私ったら、浅い人間だから本が読めてないだけなのね。困ったわ~(危機感ゼロ)。


8月8日(火)

今日は娘を歯科へ連れて行く日。こちらは虫歯がない状態でとても良いですね、と言ってもらえてホッとする。自分の歯科へ行くよりも、子どもたちを歯科へ連れて行くほうが緊張する。子どもたちに虫歯ができるかどうかは、親の仕上げ磨きにかかっていると思っているから緊張してしまうんだろうな。そして娘は歯科も苦手で暴れるため、落ち着かせなければいけないというプレッシャーとの戦いで緊張してしまうのだった。しかしこの親の緊張が伝わると、子どもはもっと緊張するのだと言われてハッとする。緊張は緊張を招く。わかっているけれど、緊張しやすい私は落ち着くことが難しい。子どもを病院へ連れて行くと、親の課題の多さを痛感してグッタリする。

またもや『百冊で耕す』を読む。

本と著者を、あまりに尊敬しすぎないこと。だから長くつきあえる。少し愛して、長く愛す。

『百冊で耕す』より引用

「少し愛して、長く愛す」というのがとても良かった。これは本だけではなく、愛するということ全般的に言えそうでもある。猛烈な愛も良いけれど、その愛は長続きするのかといえばそうでもない場合が多いように思うので、ほどほどに愛するという、その距離感がとても素敵で憧れてしまうのでありました。私は極端な人間だから、0か100か、白か黒かになりやすいので肝に銘じようと思った。

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