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過去の自分は別の自分

「えー!私ってめっちゃ頑張ってたじゃん」
過去の日記を読み返していたら思わず声が出た。2018年の日記だった。

今から4年前の自分は、思いのほか頑張っていて、仕事に家事、育児に保育園の役員、自治会の役員に犬の病気の世話、娘の介護に資格取得の勉強など、一週間単位で振り返ってみても、「どんだけ~」というぐらい朝から晩まで動き回っていて、自分のパワフルさにただただ茫然とした。

今の生活は、当時に比べれば屁でもないほど緩やかになっていて、私はのんびりと生きている。しかしふと、今の自分はもっと頑張らなくてはいけないのでは?と不安になった。4年前の自分が頑張れていたのだから、今の自分だって頑張れるはずだと考えたから。

よくよく考えてみれば、5年前の自分、10年前の自分、20年前の自分だって頑張っていたはずで、それに比べると今の自分はやはり屁のようなもに感じて落ち込んだ。少しだけ。

その落ち込みのあとで、角田光代さんの『わたしの容れもの』を読んでいたら、若い頃は当たり前と思って出来ていたことが、年齢とともに出来なくなったと書かれていた。

角田さんがこの本の中でエッセイにしているように、脂の多い肉が食べられなくなったり、遅くまで起きていることが難しくなったり、年を取ったらそうなるであろうと言われていたことを、私も日々実感するようになっているし、まだ知らない加齢についてのこともたくさんある。

こういった加齢とともに起こる心身の変化は、個人差があるので一概にコレ!と言えるものは無いはずで、例えば、私は脂の多い肉を食べることがしんどくなった時期は中学生のころだった。天ぷらとか揚げ物とか大好きだけど体が受けつけない。

本を読みながら、確かに加齢が巻き起こすものもあるとは思いつつ、しかし過去の自分を「当たり前」と思ってはいけないということも思い知った。過去の自分が簡単に出来たこと、過去の自分が出来なかったこと。そういうもので自分をはかってみても、自分は日々変化しているのだから、過去の自分と今の自分が同じ人間じゃない可能性だってあるよね、なんてことを考えていた。

だから過去の自分が頑張っていたからといって、その頑張りが今の自分にも課されていいわけではないし、まず根本的に、私は頑張りたい人間ではなく、ただただゆるりと生きていけたらそれが一番だと思っている。

ということは、私はこれからも屁のようにゆるやかに生きていけばいいか、と気づいたのでちょっとホッとした。しかし・・屁って・・・ねぇ。

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