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文章の可能性にやられた

昨日記事にした「小確幸」が知りたくて、村上春樹さんの『うずまき猫のみつけかた』をさっそく読んでみた。

生活の中に個人的な「小確幸」(小さいけれども、確かな幸福)を見出すためには、多かれ少なかれ自己規制みたいなものが必要とされる。たとえば我慢して激しく運動した後に飲むきりきりに冷えたビールみたいなもので、「うーん、そうだ、これだ」と一人で目を閉じて思わずつぶやいてしまうような感興、それがなんといっても「小確幸」の醍醐味である。

『うずまき猫のみつけかた』より引用

なるほど、「小確幸」には自己規制が必要らしい。

村上さんはこの本の中で、欲しかったレコードの話をしている。欲しいと思っていたレコードを中古レコード屋で見つけたけれど、値が上がっていて買うことを我慢した。そして後日、そのレコードを誰かに買われてしまったことを知り、あのとき買っておけばと後悔したらしい。

それから3年後、別のレコード店で欲しかったレコードを発見し、格安で手に入れることができたそう。「じっと我慢して待ったかいがあった」と本には書かれていた。

我慢した結果、欲しかったものが手に入らなかったという場面もあるだろうし、この方法は賭けに出るようなものであり、あまりマネはできそうもない。しかし諦めていたものが、あとで安く手に入るというのはとても嬉しいことで、これは確かに幸せを感じるだろうとも思い、幸せのかたちは「これだ!!」と限定できるもんじゃないのかもしれない、などと考えていた。


そんな最近の読書は『悔しみノート』

自分が嫉妬したものを、すべてノートに書いてみたらいいと、ジェーン・スーさんにラジオで言われたことをきっかけに、悔しみノートを書くことにしたらしい、著者の梨うまいさんの本。

映画やマンガ、ドラマやお芝居などを通し、梨うまいさんが嫉妬している部分を読みながら、そんなに嫉妬する作品ってどんなだろうか?と興味がわいてしまう、そんな一冊だった。

嫉妬だけを全面に押し出し、自分をさらけ出しているようで、でもさらけ出せていないかもしれない、ちょっと格好つけているかもしれないとも本の中で書かれていて、ありのままの自分がどういう人間かって、自分でもわからないからこうして迷いの見られる文章になるときもあるよね、なんてまるで梨うまいさんに共感しているようでいて、実は自分の解釈でものごとを判断しているだけなんだろうな、といったことを考えていた。

映画やドラマ、マンガや小説などを通して「共感した」と思ってみても、それは本当に作り手側の伝えたかったことじゃないってこと、きっとたくさんあると思う。それなのに、わかったような顔をして、これってこういうことでしょ、みたいな言葉を発せてしまう自分は、まるで何もわかっちゃいないんだろうなと『悔しみノート』を読みながら思った。

梨うまいさんの文章を読みながら、自分も人を羨んだり妬んだりすることってしょっちゅうあるし、でも梨うまいさんのように大きな嫉妬を抱えたことってあったかな?と振り返ってみると、私にはそのエネルギーが無かったように思う。

人を羨むけど、でも人は人だと思う気持ち、そして誰かや何かに対して、熱くなるほど興味を抱いたことが私には無かった。ここまで誰かに何かに嫉妬できる、そんな梨うまいさんのグワーッと燃えるような何かが、私はとても羨ましく思えた。嫉妬ではなく、羨望だった。

そして人様の嫉妬が、これほどまでに面白く、そして目が離せないものだとは知らなかった。『悔しみノート』を一気に読み、読み終わってすぐにまた読み返してしまうぐらい、梨うまいさんの熱量にやられた。

たぶん「面白かった」という表現はしっくりこなくて、でも何と言えば良いんだろう?と首をかしげてしまう内容なんだけど、私はこの本に出会えて、生きることの熱を学んだ気がした。実際には梨うまいさんに、生きる熱を感じないんだけどもね。生きるってしんどいみたいなことを、本の中でずっと言ってるし。

文章って本当にいろんな可能性があるんだなぁ。こういう可能性をちょこちょこ発見するから、文章を読むことも書くことも、面白くてやめられないんだなぁ。

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