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偽り続けて生きてきた私にとって、書くことは社会と繋がる術

拝啓、私と大学でかかわりを持った、全ての人へ。


私は私を偽り続けて大学を卒業し、無職になった。

学生時代、あなたが私のことをどう思っていたのか、それはあなたにしか分からないことだけれども。これらの一体何人に対して、私はありのままの私でいられたのか。きっと、およそ1割にも満たないと思う。


"学科の模範生でいないと、完璧でいないと、価値がない"

と思い込んで暴走した私を、周りは温かく見守ってくれていたんだと、今なら思える。助けての声を拾ってくれて、受け止めてくれたことへの感謝は、計り知れない。



大学生として過ごした、4年間。

日々の授業、付随する課題や試験、ゼミや卒論。加えてオープンキャンパスの手伝いやクラス委員としての仕事。文化祭の時は、学科企画の責任者として活動し、後は個人的に取り組んでいた学外活動にも、精を出した。

学生生活を送る上で、当初、私は全てに対して一切手を抜かず、全力以上で取り組んできた。しかし、3年の秋に、心身が悲鳴を上げた。

今から、嫌味に思われても仕方がないことを口にする。それをどうか、許して欲しい。

私は学生時代、勉強は出来た方だと思う。

GPA、4年間の累積では、3.48だった。多分、先生方が優しかったからだ。若しくは、私が私に求めていたレベルが、単に高過ぎたからなのかもしれない。うーん、後者の比重の方が大きいかも笑。


私は、科目の評価がSじゃないと、

激しく自責していた。S以上の評価は無いのに、その評価を受けた時でさえ「だからと言って今後も調子に乗らないように」と、自分で自分に釘を刺していた。そしてAをとった暁には「私の努力不足だった」と落ち込んだ。勿論、BもCもあったけれど、取得した単位の9割は、A以上だった。

書いていて思う、いや私、厳しすぎ笑笑。だけど、3年生までは本気でこう思っていたから、思い込みって怖いなあ、と思う。ちなみに今は思っていない。

それと、比べても無駄だと思うけど、成績表に書いてある、クラス内順位?のようなもので、上位3人のうちには、必ず入っていた。


先生も先生だ。

"学生に優しすぎる"と思った。甘い、とも思った。高等教育機関に通う学生に対して、そんな甘くていいのかと。だけど、それですらも、"厳しい"って言う人が周りに多かったから、やっぱり当時の私が、自分に対して、単に厳しすぎたのかもしれないなあ。

正直、授業受けてて、

難しいとか、厳しいって感じたことは、ほとんど無い。周りに合わせて、大変だよねーと、相槌を打つことは、多々あった。

周りを見下していた訳ではなくて、

私は私が感じている感情が、異常である、と自覚していたからこそ、そうせざるを得なかった。それが異常であると思っていたのに、誰にもそれを言わなかったのは、言ってしまったら、自分がおかしい人間だと認めることと同義だと思ったから。それが何よりも怖かった。

そうではなくて、本当は、

"社会ってこんなもんだから"と、自分の気持ちを、大切にできていなかっただけのかもしれない。厳しいと"感じる"ことを、そう"感じては駄目だ"と、雁字搦めにしていたのかもしれない。うん、そんな気がする。



私は私に、厳しすぎたんだよなあ。

きっと。社会はさ、私が思っているよりも厳しくないし、冷たくないよ。今ならそう思うんだ。



すぐに悲鳴をあげられる周りが、

私は心底、羨ましかった。「先生厳しいー!大変すぎ!!」とすぐに発せる、その単純さ。いい意味で欲しかった。私は大抵の感情を、抑え込んでしまっていたから。こんな私でも、理不尽さからくるネガティブな感情は、沢山あった笑。

試験だって、

ここ出るよと、ご丁寧に、事前の授業で必ず教えてくださった。先生毎に言い回しは異なるけれど、そんなの毎回、ちゃんと耳を澄まして、先生の話を聞いていれば、話し方の癖なんて分かるもの。

レポートも、

始めの方こそ、書き方には困惑した。けれども、PREP法を授業で学んで、それを意識的に使うようにしていたら、いつしか気付けば、使いこなせるようになった。そして私、レポートと卒論の違いが、未だに分からずにいる笑。もう卒業して1ヶ月以上経つのに笑笑。

書く時の必須共通項として、"自分の意見に対する根拠を、提示する"って言う意味でいいのか?卒論は、レポートの文量が多い版、みたいなね笑。もう終わったことだし、学士貰ったし、今更、なんだって話なんだけども。

レポートが1200字だとしたら、卒論の学科の下限規定文字数は12000字で、丁度10倍多い感じだった。まあ卒論なんて、文字数で測れるものじゃない。本当、今更だけど。あ、そうそう折角だから、ひとつだけ。

卒論書く時、

特に文章引用する際には、「〜させていただく」とか、尊敬、謙譲等はせず、「~だ、である」って言い切るんだってさ。私は無知で、それを知らずに前者の形で書いたら、口頭試問の時、学科長から指摘を受けた。

まあ有難い話、なんだけどね。

だって、私みたいな平々凡々な学生の書く文章を、学科長とか、コース主任とかなる人達が、目を通してくださって、しかも直々に意見してくださる機会なんて、そうそうあるもんじゃないからさ。年上の大人達からの知見って、めちゃくちゃ勉強になるんだよなあ。特にお世話になったお二方、改めて大好きです、心から。



まとめ方雑だけど、勉強は出来た。(本当に嫌味では無い)

でも、人間関係がてんで駄目

というか、悩みまくりだった。特に今もだけど、なんかこう、感情統制が上手くいかない。人に本当の自分の気持ちを伝えられずに、溜め込んでしまいがち。

それが積み重なって、自分の中で爆発して、相手とすれ違ってしまう。そこからくる、価値観のすり合わせとか、上手くいかないことが多かった。

と言いつつも、どこか人の気持ちに感情移入しすぎるあまり、辛くなったり、しんどくなったりして。

本当は人と話すことが好きなのに、

人といる時間が、疲れる以外の、何物でもなくなってしまうとか。友達でさえ、気を遣っていたり、自分が思っていることイコール、相手もそのように感じているだろう、などと履き違えては、気持ちを押し付けてしまったり。

相手に期待をしてしまって、その通りにならなかった時、裏切られたように、勝手に感じてしまうところとか。それで離れた人が、最近もいる。もう期待しないぞっていつも思うのに、してしまう癖が、抜けない。

あと、相手との距離感バグが、よく起こる。親しい人だと特に起こるのが、わざと、冷たい態度を取ってしまうこと。感情が高ぶった時、勢いで、全ての関係性を切ってしまおうとする。

実際にはしないけれど、例えばLINEの友達欄、インスタだと、フォローフォロワーを、全消ししようかと目論む。(基本はしないけど、)中にはしちゃった人もいる。ごめんなさいって感じ。




何度も自分のことが面倒くさいと感じて、

訳も分からず言語化できない苦しさに悶えて。ああもう、今度こそ駄目かもしれない、と思いながら。

時に、自分を傷付けたくなる衝動に駆られながら、何とか理性で抑えている。まあそんな大仰な言い方しなくても、ひとまず今はこうして書くことで、私は私の気持ちの平衡を、保っているのだと思う。書くことで、理性を保っているんだ。

私が他者に、自分の本当の気持ちを伝えられる方法。

そのうちの一つが、今は書くことなんだろうな。そしてそれは、私にとって、今までもこれからも、社会と繋がる術になるんだと思う。そして自分のペースでいいから、気持ちを伝える手段を、他にも増やしていきたい。例えば、話すこととか。私、文面でのやり取りの方が得意なんだなって、改めて思う。

でも、社会は話すことで、対人との関係性を構築していくことの方が、圧倒的に多い気がしていて。だからと言って、苦手だからって何もしない訳ではなくて、苦手なりに、自分に出来ることはする。

とは言えせめて、このnoteと言う場所では、自分が持っている力を、遺憾無く発揮したいと思うんだ。



ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます。




令和5年度
聖徳大学 社会福祉学科
卒業生

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