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私を包み込んでくれた人たち

こんばんは。

今日、何の気なしにnoteを開いたら、たまたまイベントが開かれることを知りまして。時間を見たらたまたま空いていて、半ば勢いで、noteのオンラインイベントに参加しました。

イベント名は「noteとTwitterでアウトプットをはじめるには?」。

今日のイベントを終えて、感じたこととか考えたことを、ここから常体で書いていこうと思います。

自分の考えに責任を持って発信する

物事に対して、それを自分ごととして捉えること、また自分が責任を持ってそれに取り組んでいる(臨んでいる)のかどうか、ということを「累積矢面時間(るいせきやおもてじかん)」という用語で表しているところが、私は特に印象に残った。

累積矢面時間に対する私の解釈:
「一人でどうにかしなければならない局面が積み重なって、その人がそれを乗り越えた時間の総和」のこと。

つまりは、自分の考えに責任を持って、対象となる個人、ひいては社会に対して、発信をしていくことが求められているのかなと感じた。

日記を書くような

私は、生きていく上で、1日の中で特に心が動いた出来事に対して、自分が考えたことや感じたことを、noteに言語化して表出するようにしている

何て言うと、かっこいい言い方かもしれないが、つまりそれって日記のようなものですね笑

それもプラスのものばかりではなくて、もやもやしたこととか、イラっとしたこととか、悲しかったこととか。ネガティブなことも結構多く書いているのが現状。

それでも私は、自分が感じたことを「言葉にして書く」ことに、とても大きな意味があると思っている。

言葉にすることで、自分が今抱いている感情を可視化することができるから。そして、可視化できることで、自分自身を客観視することにつながると思うから。

具体的な内容(エピソード)を自分なりに抽象化し、それをさらに、noteという媒体でアウトプットする。

重複するが、そうすると本当に自分自身が現状、抱いている感情を客観視することができるのだ。

少し話は逸れるが、それは私自身の、心の状態の安定にもつながっているように思う。書くことは、ある種、自分にとってのストレス発散になるからだ。例え自分にとって、嫌なことがあっても、むしゃくしゃするようなことがあっても。それを言葉にして書き出すことで、イライラがすべてそこに発散されるから。

発信したことに意味を見出せるのか

唯一の懸念点と言えば、例えばnoteにそれを書いたとして、それを公開するかどうかをいつも迷うことだろうか。というのも、ただの「自分のもやもやを言語化したもの」を社会に公開することで、そこに何か意味を見出せるのだろうか?と思うことがあるのも事実。

ただ、それも結局、そこに意味があるかどうかは、発信してみないと分からないなあ、とも思っている。実際、自分が精神的に苦しかった時や、追い詰められていた時に書いたnoteに、スキが付くことも結構ある。ありがたいことに、そのnoteにコメントをいただけることもある。例えば、「自分も今、似たような境遇にいるからこういうことを言語化してくれて嬉しい」といったようなコメントをいただいたことがあった。

だから、心と身体が元気な時に、そのようなnoteにスキが付いたという通知を見た時、私は、(ああ、あの時に書いて発信した意味があったんだな)と、思う。

また、現在の社会では、他責思考の人が多いと言うことを言及されていた。何かあれば「人のせい、社会のせい、政治のせい…」と。そうではなくて、原因は結局、自分にあるのだから、『自分を律していくことが大切だと思う』と。確かに自律は必要だ、と私も思う。

単純に「原因が自分にある、だから自分が変わらないと!」と思うだけならいいと思う。ただ、だからと言って、うまくいかないのは自分のせいだ、自分が悪いんだ、と起きていることを全部自分のせいにして責めてしまう(=自責してしまう)というのは、またちょっと違うんじゃないかなあ、と私は思う。

自責

というのも、私自身、その状態が長く続いた結果、とても苦しかったりしんどいと思ってきたから。自責が続くことで、「自分ができている部分」すらも『この程度じゃできているなんて言えない』と、認めてあげることができず、「自分で自分を認めてあげる」ことが、まったくできなかった時期が私にはあった。つまり自分に求める理想が高すぎた、と言うことなのだと思う。

では、その結果どうなったかと言うと、ひどく自分自身を追い込むようになった。そして、自分には存在価値がないだとか、完璧じゃない自分以外は意味がない、完璧でいられないのなら生きている資格がない、死んでしまった方がましだとさえ、思うようになっていた。

私を包み込んでくれた人たち

今思えばひどく思考が歪んでいたなと思うが、当時はこのようなことを本気で思い込んでいたから、思い込みって怖いな、と今更ながら思う。それでも私の場合には、そんな私を包み込んでくれるたくさんの人たちの存在があったおかげで、何とかその時を乗り越えて、今ここに生きることができている。

苦しさや死にたい気持ち、誰にも言えなかった真っ黒な感情を、私が全部吐き出してしまった時、それを全部受け止めて、私の話を最後まで聴き続けてくれた。見捨てないでつかず離れず、いつも適切な距離感で接してくれた友だち。

授業のグループワークの時に、私の存在には価値があるよって言ってくれた友だち。

精神的に苦しかった時、叱咤激励を繰り返してくれた大学の先生。

口で言えなかったけれども抱え込んでいたものを全部書き殴ったnote。そしてそこに、温かいコメントを書いてくれた大切な人たち。

当時はそうは思えなかったけど、毎日自分が帰れる場所を用意してくれていた家族。

本当に私は当時、たくさんの人の支えがあって、生き抜くことができたんだと思う。当時、私個人にかかる負荷はあまりにも大きすぎて、とても耐えられるものではなかった。なぜだか知らず知らずのうちに、私はいくつものことを、抱え込み過ぎていたんだな。それでも、私の周囲の環境との関係性が、私の心を救ってくれた。私はそう思っている。

紛れもなく

私が今を生きることができているのは、紛れもなく、周囲の人たちのおかげなんだと思う。

もちろん、私自身だって、この過去を乗り越えたことは、今の私にとってすごく価値のあることだと思うし、成長要素にはなっているとは思うけれど。

それでもそれ以上に、私がこうやって「今、この瞬間」を楽しんで生きられているのは、やっぱり周りの人の支えがあってこそなんだなあって、思う。


読んでくださってありがとうございます。


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また飲みたいなあ、タリーズのハニーミルクラテ。これ飲みながら書くと、執筆が捗るんです…!