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苦しいと言いながら生きている

全部、この手で破壊してやりたい。そんなふうに思うのは別に、これが初めてじゃない。これまでずっと要所要所で、そう思って生き永らえてきた。だから今更なんだまたかって感じ。当の本人も、そんな深刻に考えてない。

卒業なんてどうでもいい。これが今の、本音。

多分私、焦ってるんだろうな。手に取るように感じる。別にいいじゃん。生き方なんて人の数だけあるんだし、唯一絶対のものがある訳じゃないんだし。新卒正規雇用、がこの世のすべてじゃない。焦る必要は無い。理性がそう言っている。分かっている。

だけど時に、本能が暴走し始めるんだ。苦しい苦しいと。言語化できない苦しさが私のことを、幾度となく襲ってくる。その度に何とか、破壊衝動を飼い慣らしている。

この世は生きづらすぎる。私にとって。いやそうは言ったって、私の側にも問題はあるから、全てを責任転嫁するつもりはない。だけど、人のせいにしたいと思うことだって、生きてりゃそりゃあ、一つや二つあったって、自然なことなんじゃないのか。聖人君主じゃないんだし。

例えば私はよくも悪くも、色々なことを深く考え過ぎてしまう癖、のようなものがある。物事の本質を求めたがる。これは時に厄介だ。落ちるところまで落ちるから。

馬鹿を装うのも楽じゃない。ヨルシカのブレーメンの歌詞の一部に、こんな一節がある。本当にそう思う。相反するように、私がもっと"馬鹿"だったらよかったのかな、と思うことがある。一部の、自分以外のことなんて何にも頭にないような、考えていないような人達を見ては、そう思う。

どうしてそんなに平坦に生きられるの?どうしてそんなに何も考えていないように見えるようにいられるの?のうのうと生きていられるの?と。

敢えてそうしていると言うのなら、べつにそれも生き方のひとつなんだろうから、私にそれを揶揄する権利は無い。ただそうではなくて、本当に何も考えていないで生きているような人達を見ると、羨望と嫉妬と蔑視が渦巻くような、複雑な感情を私は抱く。そりゃあ私だって、落ちるほど考えたくて考えているわけじゃない。物心ついた時からこの頭だった、だから仕方がない、と言うのは、果たして責任転嫁だろうか。

端的に言えば、苦しいのだ。苦しさに足掻きもがいている。少なくとも今は、それ以外に言語化することが出来ずにいる。

それではなぜ、こんなに苦しさを感じるのだろうか。衣食住は保たれていて、家族関係も比較的良好。いや、もうこれがあれば幸せなんじゃないのって、突っ込まれるかもしれないが。ただ私は、自分が今、不幸だと言っている訳じゃない。今の状況に生きていることが、兎にも角にも、苦しいのだ。それだけ。

明日、自分が生きていない想像をするのは容易い。生きていない想像をすることは得意だ。小学生の頃から、私は、自分が死んだら何人の人が悲しんでくれるだろう、葬式に参列してくれるのだろうかと、よく考えていたから。小3で、いじめられて明日を迎えることに震え慄いていた時、それを思うことで、私は何とか日々を保っていた。その名残りからだろうか。

でも生きている想像は難しい、と言うよりもできない。卒業式、泣いているのか笑っているのか。今の私は、そもそもその日まで生きられているのか?って感じなのだから。笑えるよな。

苦しいと言いながら、生きている私。成長したなあと思うのは、以前は苦しさから逃れるために、酷く死にたがっていた。でも今は、死にたいという気持ちは皆無。

その代わりに、ああ今の私、苦しいんだろうなあと、どこか客観視できるくらいには、成長したんだなあと思えて。少し自分のことを、誇らしく思う笑。

読んでくださってありがとうございます。

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