水玉消防団ヒストリー第6回 1978年 12月 水玉消防団誕生
取材・文◎吉岡洋美
協力◎高沢正樹
「人に貸すばかりで、何も面白くない」
1978年6月、早稲田にフリースペース「すぺーすJORA」をスタートさせ、共同経営を始めた天鼓、カムラ、可夜、まなこの4人。
「表現すること、楽しむこと、実験すること、思いを伝えること、何でも持ち込んでください」——オープン時にこう銘打たれたJORAは、マイノリティの受け皿にもなり、先進的な表現も試せる「レンタルスペース」として機能した。業務は、併設のカフェ+バー“マヤー・ジーズニー”も含め、夕方から大抵2人ずつのローテーションで、人数が必要なときは4人体制のスタイル。ただし、「夕方から」とは営業方針でも何でもなく、「平日の昼間、誰も借りに来ない」(カムラ)からなのだった。
カムラ自身は、デヴィッド・ボウイの訳詞で中学時代に感銘を受けた岩谷宏やボブ・ディランの訳詞で知られる中山容、リンゼイ・ケンプ・カンパニーに所属した日本人女性ダンサーを招いてのトークショー、向井千惠との二胡と舞踏の即興デュオ等々、自主企画も行いつつ、「そういう、自分が面白いと思うことは考えられるんだけど……」と、苦笑する。
カムラ「カフェバー営業はそもそも夕方オープンだからいいとして、レンタルスペースで平日の昼間にどういうものをやって集客し、いかに採算をとるか。私も含めて皆、頭が働かない(笑)。主婦向けの絵画教室のようなカルチャースクールでも考えればよかったんだろうけど」
「誰一人、ビジネスを考えるタイプじゃない」と天鼓も言っていたように、とにかくJORAのレンタルスペースは当初から平日昼間、いつも空いていた。そして、そのスタートから半年も経たない78年のあるとき、天鼓は自分たちで始めたレンタルスペースに対して、こう思う。
「貸すだけで全然面白くない」
天鼓「人に貸すばかりで、自分たちは何もしないからつまらない。ちっとも面白くないんですよ。大体、貸しているだけで何もしなかったら意味ないじゃない? だけど、この4人で何をやったらいいのかわからない。それで、皆に聞いたわけ。『何かやろうよ、何をする?』って」
都心のなかにあって、二重壁、二重サッシが施された20坪ほどの昼間の空間。「何をしようか」の天鼓の提案に、スリー・ポイント時代から四人囃子はじめロック関連の友達が多い可夜は「やるんだったら、ロックバンドじゃない?」と答える。
天鼓「可夜さんは、それまで自分で(バンドを)やったことはないけどそう言う。まなこは他のことが思いつかなかったのか『ロックでいいんじゃない?』と言う。カムラはもともとロック好きだし、皆、『今、やっぱりかっこいいのはロックバンドだよね』って。私は『わかった、わかった。ロックだったらいいのね、ロックだったら』と(笑)」
そして、天鼓はすぐさま走ってドラムセットを買いに行った。
天鼓「だってね、ぼーっとただ口先だけで『ロックがいいんじゃない?』なんて言ってても、誰かが何かやらないと誰も何もしない。どんな世界でもどんなときでもそうなんだ。要はドラムセットを買って既成事実を作ったわけです。そうしたら皆、まさか何もしないわけにはいかないよね(笑)。もう全員、後に引けなくて、やるしかない状態になったわけ」
カムラ「ある日、JORAに突然ドラムセットが現れた。確かに、置くスペースはある(笑)。で、天鼓から『ドラム買って来たし、カムラも(ロックバンドを)やるんだよ』と言われて、『え! 冗談でしょ?』って言ったのは、よく覚えてる(笑)。マジ、何言ってんの? 天鼓? みたいな感じで。だって、バンドだ、ロックだって言ったってやってた人がいるわけじゃないし、ほとんどの皆はロックのことを知らないし、バンドもどうやればいいか分からない。でも、天鼓はブルドーザーみたいなパワーの持ち主だから。とにかく始めちゃったのよ(笑)」
天鼓は「何だって始めてしまえば何とかなる」と簡単に言う。
天鼓「熱を持って興奮して話したり行動したりすれば、何ていうか結構皆も興奮してくる。だから気がついたら何とかなるんですよ、やろうと思ったことが。そういう興奮と半分脅し、みたいな?(笑)」
ロックバンド結成「コードって何?」
楽器の割り振りは、天鼓が自ら購入したドラムを担当し、カムラは「ギターは中学時代の挫折があったし、弦が4本で簡単そうだから」とベース、子どもの頃バイエルをやっていたけれど、ほとんど楽器初心者の可夜はキーボード、「おそらく人生のなかで一番楽器にほど遠い人」(カムラ)というまなこはギター。この4人だけでは「難しいので」(天鼓)、4人の友人、みやもとSANがギターで参加する。
みやもとSANは、もともとホーキ星を通じて4人と出会った小学校特別支援学級の美術教師で、自らも陶芸制作のため友人と窯を持ち、女たちが共同で行える仕事作りを模索していた。当時は、早稲田のマンションの一室を可夜と2人で借り、共同生活を送っていたとき。4人にとって身近で自然な存在であった。
まずは、この5人のバンドメンバーと「それぞれ自力で楽器を調達して」(天鼓)楽器担当も決まり、次は演奏というわけだが、ロックを知らない天鼓が「最初に何か譜面を用意したほうがいいと思って」買ってきたのは、同じ5人編成の日本のバンド、チューリップの楽譜。まず、ヒット曲の「心の旅」を課題曲に練習を試みるも……。
カムラ「全く練習なんかにならない(笑)。エレキギターもベースもどうやって使ったらいいのか分からない。チューニングだけで半日かかって、というかチューニングというものが何なのかも分からない(笑)。『えー、それ合ってないよ』とか言い合って皆、勝手にやってるから」
天鼓「チューニングメーターの存在を知ったのなんて、ほとんど1年後(笑)。それまではチューニングメーターなしで『そっちが違ってる!』『いや、違ってるのはそっち!』って喧嘩ばかり」
カムラ「その上、今度はコードのことがわからない(笑)」
天鼓「そう、しかもチューリップはコードが多くて難しくて、とても私たちにこんなことは出来ない、って話になった(笑)」
楽器を手にしたものの、どの曲が難しいのか簡単なのか、どうやればロックバンドになるのか誰も知らない。そこで、講師の登場となる。可夜が運営していたスリー・ポイントで、ロックライブを企画していたウラワロックンロール・センターの高沢正樹がバンドレクチャーのため、JORAにやって来ることになる。
カムラ「あのときのことは本当によく覚えている。可夜さん人脈でナス型サングラスに長髪、ベルボトムの絵に描いたようなロック青年、高沢さんが颯爽と現れた。で、可夜さんに『私たち、バンドやるんだけどさ、何やればいいの? どうすればいいの? 教えて』なんて言われて、『何も知らないの? コードってわかる?』『コードって何?』みたいな私たちに、颯爽と現れた高沢さんは頭を抱えちゃって(笑)」
そこで高沢が課題曲として伝授したのがキンクスの「You really got me」。
●The Kinks 「You really got me」
カムラ「ギターを持って来て『ここをこう押さえて同じ形でジャジャジャジャジャって一個づつずらせばいいから。これなら出来るんじゃないか?』って。Fコードのみで弾く方法を教えてくれて、ギターフレッドを行き来させればベースもそれに合わせてルート音をただダダダダダってやってればいい。ドラムも高沢さんがちょっと教えてくれたのかな? 皆、高沢先生の見様見真似でやってみたら、一応バンドのような音が出たんですよ。『曲になったじゃん!』って、もう私たち、神の啓示でも受けたようになっちゃった(笑)。めちゃくちゃ大きい一歩」
唯一ロックのことを知っているカムラとのみ、辛うじて「音楽的な会話ができたけど…」と、高沢もこのときのことを証言する。
「当時、アマチュアバンドのアドバイスみたいなことはよくやりましたが、さすがに彼女たちほど何も弾けないバンドは他にいなかった(笑)。天鼓さんはドラム・セットを“ドラム”というより“パーカッション”みたいにして組んずほぐれつしてたような印象が残ってます。そこにドラム演奏の基本的なコンビネーションを教えたと思うけれど、今から思うとそういうのは唾棄すべき教条主義だったかもしれない(笑)」(高沢)
●パンクバージョン「心の旅」
さて、もう一つ課題曲として与えられたのはローリング・ストーンズの「Jumpin’ Jack Flash」。高沢によって「神の啓示」を与えられた5人は、カムラ曰く「昼間のJORAでクソほど練習」を重ね、しかも「Jumpin’ Jack Flash」はキンクスと違い、少なくとも2つの形のコードで押さえなければいけないところを「そんなことは出来ないから1つのコードだけでグレードダウンさせた」(カムラ)という力技。
●Rolling Stones「Jumpin’Jack Flash」
ここで、1コードでもパワーで押し切れば何とかなるという味をしめ、難曲だったチューリップの「心の旅」も1コードで再トライしレパートリーにしてしまう。ヴォーカルはドラムの天鼓である。
カムラ「とにかく『心の旅』はコードがいっぱいあり過ぎるし、そんなの弾けない。だから、そのなかの一つのコードで最初から最後まで通して終わる(笑)。今思えばかなりラジカルなカバー」
テンコ「後で思えば、めちゃくちゃピストルズみたいなカバー(笑)。歌詞はあのまま歌うんだけど原曲とは全然違う。だけど、違ったっていいじゃない。同じようにやるほうが面白くない。というわけで図らずしもパンクバージョン」
カムラ「原曲通りになんかできないから(笑)。意図的にパンクにしようと考えたわけじゃないんだけど、最初に出て来たコード…Cかなんかだったんじゃないの? それを“最初から最後まで弾こう“となり、そして天鼓が歌詞を叫ぶ」
つまり、ラフテクニックに端を発した不協和音を、歌でねじ伏せる萌芽がこのとき顔をのぞかせる。
●チューリップ「心の旅」(1973)
●SEX PISTOLS「God Save The Queen」(1977)
ちなみに78年当時のロックシーンは、セックス・ピストルズの解散こそあれ、“パンク”はロックの価値観をストリートに戻す刺激的なキーワードとして変わらず最前線にあり、ジョン・ライドンはピストルズのあとにP.I.Lを結成、NYではブライアン・イーノのプロデュースによる「NO NEW YORK」が発表された頃。パンク、ロック自体を解体するような次元のいわゆるポストパンクが台頭し、また、“ニューウェイヴ”という広義の言葉も出現していたときだ。日本ではフュージョンやシティポップスが華やぐその地下で、フリクション、ミラーズ、リザード、ミスター・カイトら「東京ロッカーズ」のムーヴメントを起こすバンドが、パンクオリジネイターとして胎動しはじめていた。
●PIL「Public Image」(1978)
●V.A.「NO NEW YORK」 (1978)
●FRICTION「Crazy Dream」(1978)
●MIRRORS「Passenger」(1979)
●MR.KITE「EXIT B9」(1978)
●LIZARD「TV MAGIC」(1979)
カムラを除き、ロックの情報を追っていないメンバーたちは「ロックがいいんじゃない?」と始めたシーンのこうした動きを、当然の如く「全く知らない」(天鼓)。
天鼓「ロックバンドを始めるといってもレコードを聴いたり、バンドを見に行くなんてこともしていないしね。初めてJORAで音を出していただけだから」
カムラ「もちろん、私はラジオなんかでパンクの話やピストルズの曲も知ってた。『イギリスではすごい動きがあるんだ』と感じてたけれど、影響されてパンクをやりたいと思ってたわけでもない。当時、東京ロッカーズあたりのライブシーンのことも全然知らなくて、あの頃好んで聴いてたのはボウイにキング・クリムゾン。やはり私としては(ロックを自分でやるのは)敷居が高いことだったんですよ」
ところが、楽器の知識もなくテクニックもなく、初期衝動とありあまるエネルギーのまま、ロック解体どころかハナから「狂ったチューニング」(天鼓)で、「5つのコードは1つのコードに」(カムラ)を出発点にした彼女たち。結果的に出て来る自分たちの演奏が「パンク」とシンクロしはじめているとは、この時点でメンバーの誰一人知る由もない。
表現すること、楽しむこと、実験すること、思いを伝えること、何でも持ち込んでください——。
JORAの謳い文句通り、平日の昼間、空いている空間を正に自分たちに発動させた彼女たちは、さっさとライブを計画する。JORAをスタートして1年も経たない78年12月、5人は初ライブを自分たちのスペースで行うことになる。
カムラ「『You really got me』『Jumpin’ Jack Flash』『心の旅』の3曲のレパートリーが出来て、自分たちでライブをやろう、ということになった。持ち曲3曲しかないのに(笑)」
そうなると、必要なのはバンド名である。英語ではなく日本語の名前で「グループのイメージを出す言葉が欲しいね、って皆で言ってた」(カムラ)そのときにサイレンを鳴らしながら道を走って行ったのが、消防車。
天鼓「そこで、まず“消防団”が決まった。消防団は人助けもするし、いいじゃないか、って」
カムラ「で、消防団の前に女性バンドのイメージで“水玉”って付けたらちょっと可愛いじゃん、と。実はガールズバンドとして可愛さも狙っていたのかな(笑)」
思い立った速度のまま進んでいくロックバンド計画。ところで大学時代、天鼓は学内で行われていたロックのライブを「うるさい」と思っていたわけだが。
天鼓「人のを聴くのは別だけど、自分でやるんだったら大きい音のほうが楽しいに決まってるよね。そこは図々しくやらないと」
かくして、ここに「水玉消防団」は誕生したわけである。
●天鼓 1978年より女性のみのパンクロックバンド、水玉消防団で音楽活動を開始、80年代のニューウェイヴシーンで10年間活動を行う。同時に80年代初頭にNYの即興演奏に誘発され、声によるデュオの即興ユニット、ハネムーンズをカムラと結成、活動開始。その後、ソリストとして活動を続けるうち、86年頃よりヴォーカリストではなく「ヴォイス・パフォーマー」と称するようになる。「声を楽器に近づけるのではなく、より肉体に近づけるスタンス。あるいは声と肉体の関係を音楽のクリシェを介さずに見つめる視点。“彼女以前”と“以降”とでは、欧米における即興ヴォイスそのものの質が大きく変質した」(大友良英)。85年のメールス・ジャズ・フェス(ドイツ)以降、世界20カ国以上でのフェスティバルに招聘されている。これまでの主な共演者は、フレッド・フリス、ジョン・ゾーン、森郁恵、大友良英、内橋和久、一楽儀光、巻上公一、高橋悠治など。舞踏の白桃房ほかダンス、演劇グループとの共演も多い。水玉消防団以降のバンドとしては、ドラゴンブルー(with 大友良英、今堀恒雄 他)アヴァンギャリオン(with 内橋和久、吉田達也 他)などがある。15枚のアルバム(LP /CD)が日本・アメリカ・カナダ・スイス・フランス・香港などでリリースされている。演奏活動の他、各地で即興・ヴォイスや彫塑、空間ダイナミックスなどのワークショップを数多く行っている。
◆天鼓、緊急出演決定!
12月21日(水)
「Doravideo(一楽儀光)バースディライブ」@秋葉原 Club Goodman
19:00 Open 19:30 Start 前売¥2,500 当日¥3,000(+1drink order)
出演/Doravideo、七尾旅人(リモート出演)、ニーハオ!!!、若林美保、沖縄電子少女彩、イ・スンギュ、天鼓
●カムラアツコ 80年代、日本初の女性パンクバンド「水玉消防団」で、ボーカリスト、ベーシストとして音楽活動開始。日本パンクシーンの一翼を担う。同時に天鼓との即興ボーカル・デュオ「ハネムーンズ」にて、ニューヨーク、モントリオール、ヨーロッパで公演、ジョン・ゾーンはじめニューヨーク・インプロバイザー等と共演。その後、英国に渡りポップグループ「フランクチキンズ」でホーキ・カズコとペアを組む。オーストラリアを始め、ニュージーランド、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、ソビエトなどツアー。90年代は、ロンドンで始まったレイブシーンでダンスミュージックの洗礼を受ける。2000年以降、「I am a Kamura」、「Setsubun bean unit」でフォーク、エスニック、ジャズ音楽の領域に挑戦。現在の自身のプロジェクト「Kamura Obscura」では、Melt, Socrates' Garden、Speleologyのアルバムをリリース。エレクトロニクス、サウンドスケープ、即興の渾然一体となったさらに実験的な新作「4AM Diary」を2021年末にリリース。同年秋、イギリスのポストパンクバンドNightingalesの満席完売全国ツアーをサポートする。2019年にはバームンガムの映画祭Flat Pack Film Festival、2022年10月にはポルトガル・セトバルの映画祭Cinema Charlot, in Setubal, Portugal にて、日本の前衛映画の名作「狂った一頁」の弁士を務めた。
●水玉消防団 70年代末結成された女性5人によるロックバンド。1981年にクラウド・ファンディングでリリースした自主制作盤『乙女の祈りはダッダッダ!』は、発売数ヶ月で2千枚を売り上げ、東京ロッカーズをはじめとするDIYパンクシーンの一翼となリ、都内のライブハウスを中心に反原発や女の祭りなどの各地のフェスティバル、大学祭、九州から北海道までのツアー、京大西部講堂や内田裕也年末オールナイトなど多数ライブ出演する。80年代には、リザード、じゃがたら、スターリンなどや、女性バンドのゼルダ、ノンバンドなどとの共演も多く、85年にはセカンドアルバム『満天に赤い花びら』をフレッド・フリスとの共同プロデュースで制作。両アルバムは共に自身のレーベル筋肉美女より発売され、91年に2枚組のCDに。水玉消防団の1stアルバム発売後、天鼓はNYの即興シーンに触発され、カムラとヴォイスデュオ「ハネムーンズ」結成。水玉の活動と並行して、主に即興が中心のライブ活動を展開。82年には竹田賢一と共同プロデュースによるアルバム『笑う神話』を発表。NYインプロバイザーとの共演も多く、ヨーロッパツアーなども行う。水玉消防団は89年までオリジナルメンバーで活動を続け、その後、カムラはロンドンで、天鼓はヨーロッパのフェスやNY、東京でバンドやユニット、ソロ活動などを続ける。
◆天鼓 Official Site
天鼓の公式サイト。ヴォイスパフォーマーとしての活動記録、水玉消防団を含むディスコグラフィーなど。
Kamura Obscura
カムラの現プロジェクト「Kamura Obscura」の公式サイト。現在の活動情報、水玉消防団を含むディスコグラフィー、動画など。
◆水玉消防団ヒストリー バックナンバー
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