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社会からの疎外感、理不尽のいじめ、心のメカニズム

ブログ書いて、発信して、これでよかったのかなと思い悩んで、ひどいときにはノイローゼになる、これをもう1000回はやっている気がします。出した記事はそこまでいっていませんが、一つの記事に何度ノイローゼになるか分からないことを考えると、妥当な数字なのです。発信者はそれを発信したという時点で、一つ肯定されるべきであろうと思います。されるべきというより、発信した時点で肯定される、これが原則としてあるような気がするのです。それが例え好ましくない発信だったとしても、一度肯定されることがなければ、どうしてまたその人は発信し続けているのでしょう。

働けない人、働ける人、ということをよく考えます。どんな人が働けて、どんな人が働けないのか。これは様々な着眼点があると思いますが、こんこんと思い悩んでいくと、あるところでここからが働ける人、ここからが働けない人という線引きがどこにもありはしないのではないか、という気がしてきます。現に働いている人は仮に今社会適合という姿を発現しているだけで、その人がいつのまにか社会的に落ちこぼれになることもあるだろうし、はたまた落ちこぼれと言われる社会からドロップアウトした人間が、たちまちのうちに一つの企業の開発部門を担当する、ということもありえなくはないと思うのです。結局はお金を稼いでいるか、稼いでいないか。それだけの違いなのだと思います。

父と母の前で、私は無言です。弟や妹に対しても。でも弟や妹とは話したいんです。話したいし、非常に興味がある。でも、父と母の前で絶対に話している姿を見られたくないのです。絶対に私が笑顔で気さくに話しているところを見せたくないのです。だから私は実家でいつも無言なのです。もし母と父がいなかったら、私は弟と妹と色々話し合います。それ自体が楽しみだからです。

自分で言うのもあれですが、かなりのペースで記事をあげています。大体1記事2000文字〜5000文字になる記事をあげています。先ほど働ける人、働けない人という話をしましたが、私は完全に社会から浮世離れしているわけではありません。現に22歳で大学一年生をやっていることに非常に危機感を感じています。留年はしていません。うつで全日制高校を退学し、その後定時制に編入して、回り道をしてきたから、22歳で大学に入学したのです。本来なら就職する年。この危機感に私はヒリヒリと記事を書かせられるのです。

でも決して、サボっていたり怠けていたから、今もモラトリアムをやっているわけではありません。私は逆に本気を尽くしたから、身体の限界が来て、結果的に社会からドロップアウトしただけなのです。だからもし、人の努力を数値で表すことのできる努力パラメータなるものがあるのだとしたら、私の努力パラメータはカンストしている自信があります。努力すればするほど、社会からドロップアウトする。そして社会からドロップアウトした疎外感が、私をさらに努力させる。この構図なのです。だから前から言っている通り、私の心象風景は「何が起きてんだ!?」なのです。

便利だから使っているのです。22歳でただでさえ遅れているのだから、私はもっと頑張らなければならない。これを努力の口実にできるからです。便利だから使っているのです。

怒っているのです。いかっている。全体的にいかっているのです、私は。そうして思うのです、もし私の手で社会的な地位を担保する、つまりは社会的に成功することができたら、誰よりも謙虚にいこうと。謙虚にいこうというより、謙虚になるだろうと。なぜなら人生が大変すぎるからです。人生が大変すぎるから、ただ私を支持してくれる人間がいるだけで有り難い。人生が大変すぎるから、感謝が湧くのです。じゃあ逆に言えば、人生は大変だと思っていない人間のみが、感謝をしないのだと思います。

努力努力言っていますが、私は努力には二つの道があると思っています。一つは熱中。二つは義務です。一つ目の熱中は、それ自体が楽しい。ただただやるのが楽しいからやっている、そして結果的にものごとが上手になる、このことを言います。これが本来の意味で正しい努力だと思います。ただもう一つは義務。義務は「やらなきゃいけないから」やるものです。そして私の努力は100%この義務なのです。つまり努力パラメータのその努力は、義務の場合の努力のことなのです。熱中は熱中しているのですから、本人は努力だと思っていないのです。つまり主観的にそこに努力といえるものは、なかった。故に努力パラメータなるものがあるとするならば、それは義務の貯金、なのです。

こんな悲しいことはありませんが、私はすべてが義務なのです。楽しい、という言葉を聞くけども、私はその感覚が思春期の10年間は分からなかった。本当に、分からなかった。そして感じるのはこっちなのです、気持ちいい。気持ちいいなのです。楽しい、ではないのです。気持ちいい、なのです。そしてこれを分別すると、楽しいは生産性、気持ちいいは優越感なのです。つまり私は優越感に捉われた人間だったのです。これがうつの元凶でもあると思います。

でもその本人が優越感に至ることは、本人だけを糾弾すればいいものではありません。その本人がそうなったのは、その人を育てた親が、団体が、社会が、軽薄だったからです。欲望だったからです。つまりその本人が生まれ落ちた世界に本質がなかったのです。これがいわゆる、"理不尽"というやつです。

理不尽に生まれ落ちた人間は、"楽しい"と思うことの芽を摘まれる。そして感じるのは、ただ人間を力で支配するという徹底的な上下関係の、優越感のみ。優越感は劣等感の裏返しで、つまるところ理不尽が本人に与えるのは強烈な劣等感なのです。それがあるとき翻って、優越感となってしまう。自己肯定感、愛情、尊重、は楽しさと結びつきます。そして機能不全、毒親、理不尽、服従、は優越感と結びつくのです。これがおそらく現代の精神障害の根本病理だと思われます。

そして私がかねてから言う"空虚"なる人間は、みな例外なくこの優越感、がとても強いのです。優越感が強い人間が持つのは比較相対のみ。比較相対とは他者と比べて自分はどうか、ということです。あるいは徹底的にその価値観は上下関係なのです。愛のある人間は横の関係を築きます。上下の価値観に生きる人間は、過去の私も含めて、絶対的に他者との関係を築くことができません。なぜなら他の人間が私より優れることがあってはならないからです。それ故にもし絶対的にこの人には敵わない、という対象をその本人が見つけた場合、その本人が取る行動は媚を売る、これ一つです。なぜなら絶対的に敵わない、かといって尊敬もできない、そうなればできるのはこの人間から、この"脅威"から、できるだけ嫌われないようにする、ということだけだからです。そしてまた、本人が思う絶対的強者である人物は、大体の場合自分を愛せている人間です。愛があるから、失敗も恐れず、能力が上がっているわけです。そして皮肉なことに、このような自己肯定感を持った人物は媚を売ってくる人間をあまり好きだと思いません。なぜなら愛を持ててる以上、その人物は媚びとは無縁なので、そこにとてつもない居心地の悪さを感じるからです。故に優越感の人間と愛の人間は互いにくっつくことはありません。もしくっつくことが認められるのだとしたら、それはおそらくカウンセリングや精神科医というどちらかがプロの仕事になってくるかと思います。

そして1番気になることかと思いますが、私は昔優越感の人間でした。でも今は愛も知っています。地獄の努力をしたのです。私の場合は頼れるカウンセラーもいなかった。自分で自分の不足を補ったのです。勿論、参考になる著書や、一時的にお世話になった人物もいました。しかしながらこの心のメカニズムを理解し抜いてカウンセリングしてくれる人間はどこにもいなかった。故に遠い道のりでしたが(本当に遠い道のりだった)、自分の努力で自分の不足を補ったのです。だからこそ、私はその理不尽の世界にはもう用はないのです。そしてそういう世界を見ると、透徹した怒りを感じるのです。憤慨するのです。要は最初に言った社会からの疎外感、これこそが人間の欲望の本質の部分であると言っているのです。このエゴの本質の部分が私に関わろうとするので、私はこいつに威嚇して近づけないでいるのです。

一つ昔から、イメージしている図があるのです。それはいじめと悪鬼(あっき)の図です。1人の子どもがたくさんの鬼にいじめられています。集団でリンチにされているのです。ここでの本質はこの悪鬼(あっき)は弱いものだけをいじめる、という特質を持つことです。つまりは悪鬼自身が弱い生物であるため、弱いものいじめをするのです。そうして人間の子が1人、いじめられている。しかしあるとき人間の子どもは、突然血相を変えて雄叫びをあげます。それはこの世のものとは思えない、怒りと、そして気高い雄叫びです。これをした途端、悪鬼(あっき)は全員戦慄して、みな飛び散って逃げていきました。なぜなら悪鬼は弱いもの、をいじめるので、目の前に獅子がいたら恐怖を感じて逃げるしかないからです。そして人間の子どもは、いじめられていた時とは違い、深く筋張った、覚悟の決められた凛とした顔でその現実世界を自由に生きていくのです。

このような心象風景があるのです。ここでの悪鬼(あっき)は先ほど述べた世の"理不尽"に該当します。あるとき理不尽に心底怒りを持った人間は、雄叫びをあげるのです。そして本当の意味で主権を回復したその人間は、自分で自分の世界を創っていきます。そしてその眼にはもう、理不尽の軽薄さを見抜く力がありますから、要は世の中の理不尽を見ても動じなくなるのです。そして理不尽に動じないのと同時に、軽蔑し抜いているのです。軽蔑の途中なのではありません。軽蔑の途中だと、その理不尽にしがみつくのです。しかしこの場合は軽蔑し抜いている。要は「もう用はない」ということです。これがおそらく、精神の深化をする人間の成熟過程です。

私はこのようなことを日々感じ、生きているのです。どうか私に普通の生活が担保されることをお許しください。ここまで見てくださった方、心から感謝します。ありがとうございました。

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