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意識と無意識

僕らは普段「自由意志」に基づいて選択していると思っている。
僕たちは自身の「意識下」で「選択」していると思っている。
 
ではそれは本当か?

 100%あなたの考えで選択しているのだろうか?たとえば僕は牛丼屋でなにを食べようかと考えてメニューを見る際に、嫌いなオクラはそもそも選択肢の中にすら入っておらず、好きなものの中から選ぶ。これを読んでいて今あなたは「なにを当たり前のことを」と思っただろう。だが、コレは意識下で判断を下している結果ではなく「無意識」の中で自動的にオクラという選択肢が除外されていることを意味する。
 この無意識下での選択は単に当人の選好によるものだけでなく、健康意識や企業の広告などが作用している。ダイエット中にはそもそも脂質や糖質爆弾のようなメニューは選択肢の中には存在せず、すき家の看板を見なければそもそも牛丼の気分にすらなっていなかったかもしれない。
 つまり、意識して「選んでいる」と思っていても、その選択肢は既に無意識下で選別されたものであるということだ。 
 上記の説明で私たちの下している「選択」の大部分は「無意識下」で行われてることが理解できただろう。
 

では「無意識」とは何か?
 

僕は今年にはいってからこれについてしばしば考える。今のところ思っているのは、今ここにある「意識」を形作っているものは「無意識」であり、無意識を形成しているのは知識(情報)であるということだ。「あたりまえだ」と感じる人もいるかもしれない。しかし、この考察に何か意味があるのかと聞かれれば僕は「大きな意味がある」と答えるだろう。
 
なぜか
 
では以下では喫煙者を例に説いていこう。
 僕自身元喫煙者として、喫煙者の「タバコを吸いたい」という欲求は大きく二分できると思う。まず一つは「絶景を見ながら吸いたい」などの美味しいと思えるシチュエーションでの一本がある。もう一つは「薬物依存による禁断症状緩和」を目的とした一本がある。後者無意識にタバコを欲していることは言うまでもないが、前者について考えてみよう。例えば、多くの未成年喫煙者の喫煙動機には「カッコいい」というイメージが少なからず影響しているだろう。ではそのイメージはどこから来たのか。また、セックスの後のタバコが美味いと感じるのはなぜか?映画などで瀕死の兵士が最後に一本欲しがるシーンや、死刑囚が最期の一本を欲しがるシーンなどを目にしたことはないだろうか?

 もし、あなたが喫煙者であるならばどんなシチュエーションの一本が最高に美味いか考えてみてほしい。
 
 上記で述べてきたような美味しい一本は、果たして本当に僕たちの欲しているモノなのだろうか。私の考えでは「」である。前述のシチュエーションは煙草産業によって作られたイメージであると考える。映画や広告などで映るタバコは「意識下」では何も感じなくても「無意識下」でしっかりとそれらを消化しているのである。つまり前述の「無意識が意識を形作り、無意識は知識(情報)によって作られる」という言葉の通り、映画や広告などの情報が「無意識」に働きかけ、「美味い一本」なるモノ(幻想)を作り上げているのである。しかし多くの喫煙者はコレに気が付かない。なぜならば、その選択が「意識」によるものなのか「無意識」によるものなのかなど考えていないからである。
 喫煙者は、「自分は依存していない」と思うほど馬鹿ではない。だが前述の「意識、無意識」を理解していないがためにタバコの美味しさ素晴らしさは「作られたイメージ」であることに気がつかないのである。恐らくここを理解できないとタバコを辞めることは難しいだろうし、例え禁煙をしても我慢して過ごさなければならない。しかし、「企業の広告活動によって促された消費行動」で自分の体を汚されていたことに気がつけばもう前者の喫煙欲求(美味しい一本)などは湧いてこず、後者の薬物依存による禁断症状緩和のための喫煙欲求しか出てこないであろう。
 
長くなってしまったが、これが僕が煙草を辞めた理由であり、意識と無意識についての持論である。
 喫煙者ではない人もこのnoteを読んだら是非、自分の欲求が"何に由来しているのか"を今一度考えてみてほしい。恐らくモノの見方が多少は変わるだろう。なぜその商品が欲しくなったのか、なぜその商品を食べたくなったのか、なぜその映画を見たくなったのか、なぜそれがしたくなったのか。きっと消費者の立場でも、生産者(供給サイド)の立場でもこの考えは役に立つだろう。
 そして、このnoteを読めばそれはまた一つの情報となりあなたの無意識下に作用するだろう。

 自分をコントロールしたいと思っている人なんかはこのnote刺さるんじゃないでしょうか。

 ちなみに僕は今年に入るまで、肥満喫煙者でした。ですが僕がタバコをやめ、食生活を正し、運動を習慣化しはじめたのは、僕は「人々は何にどう反応してどう行動するか」を明らかにする学問である"経済学"を学んでいるのにも関わらず、何年もの間「身にならない消費行動」を繰り返し、体を汚していることが愚かであり、せっかく親に与えられた高等教育を無駄にしていると気がついたからです。
 

 ちょっと話はズレますが、経済学部の1年生は「企業は利潤を追求し、その利潤を最大化するように行動する生き物である」と教わります。
 この利潤最大化行動にはもちろん販促活動なども含まれます。
 そして、動物かの如くただそれに反応して行動し、自分は受動的であることに気が付かず、自分の選択は自分で下していると思い込み、搾取され続けるのが知識的貧困層だと思います。
 この構図はその辺に広がっていると思います。

ぼくが言いたいのは、経済学を学んでる者として今までにとってきた行動はあまりにも「何も学んでいない行動」であり、愚かであったということです。
 前述の意識と無意識の話、まとめると 
『より愚かではない選択肢をとりたい。そのためには自分をコントロールすべき。そのためには無意識を形作っている知識を収集し続けるべきである。さすれば愚かな行いは多少は減るだろう』って話です。

長ぇわ

賛同も反論もどちらも嬉しいので、頂けると喜びます。是非。

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