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多様性の勘違い

最近よく耳にする「多様性」。
確かに多様性は大事だ。
それは今更言うまでも無い。
そして、それを否応なく、ビジネス感覚やポリコレ的に押し付けられて嫌気が差している人がいることもわかっている。

けれど、今日はそういった話とは少し違った角度から書いてみる。

多様性という言葉が浸透しすぎると、
「他人の人生には干渉しない」
という意識が人々の間に根付いてしまうのではないかという問いだ。

多様性は確かに大事だけれど、SDGsが本来の意味目的と違った理解や扱われ方をしているのと同じように、
世間一般に少し勘違いされた形で浸透しているように思う。

「多様性を大事に」とは、
簡単に言えば、人それぞれ個性や価値観、正義は違っているけれど、
その違い(=多様さ)」を認め合って共生していこうという考えのことだと思う。

けれど、最近のメディアやSNS、僕の小さな交友関係を見ている限りでは、
違った捉え方をされているように思う。

僕の思う多様性を大事にした社会と言うのは、「皆違っているのだから当たり前に齟齬はあるし軋轢は生まれるけれど、互いに理解しようと努力する社会」のことである。

けれど今の社会は、「皆違っているのだから違う人とはできる限り関わり合わずに存在を認めるだけに留めてお互いに干渉し合わないようにしよう」という風に僕には見える。

違っているからこそお互いを理解しようと励み認め合うのではなく、

違っている人とはできるだけ関わらず、一応生存権という意味だけでの存在は認めよう、という風に考えている人が多いように思う。

「そういう人もいるんだから」
「色んな人がいるよね」
「今の時代そんな否定するようなことは言っちゃダメだよ」
「その人の人生だから」

といった言葉は、一見多様性を重んじているようには見えるけれど、実際は徹底的に他人事なのであって、
触らぬ神に祟りなしの姿勢でしか無いように僕は思う。

もちろん差別はいけないし誹謗中傷もいけないこと。
けれど、一応最低限の存在権だけは認めて、互いが暮らしやすい世界を作るために議論を重ねるのではなく、
あの人の人生はあの人のものなのだから、と割り切って、
プライバシーの名のもとに個人と個人の間に壁を築き合う世界で本当に良いのか。

政府は「自助」を掲げ、世間には「自己責任」の言葉が踊るけれど、
いつだって苦しい僕らを救ってきたのは
「ちょっとめんどくさいけれど頼りになるおせっかいな誰か」だったはずである。

その「ちょっとめんどくさい」の少しの煩わしさを無くすために僕らは「便利さ」を頼った。
それが故に人と人が繋がらない、あるいはネットや画面上では繋がりすぎた世界が生まれてしまったわけだけれど、

本当に多様で人々が繋がり合った世界というのは、ある程度の「ちょっとめんどくさいおせっかいな誰か」を許容しないと実現しないと僕は思う。

そんな「実家のオカン」みたいな人が間にいるからこそ、社会は成り立っているはずなのに。

今僕が見えている世界では、
「尊重=表面上は認め合うけれど実際は他人事」という風になってしまっているのが実状で、

誰かを傷つけた上で学んで試行錯誤していくべきはずのコミュニケーションが、
他者と当たり障りのないコミュニケーションしか取らない形になってしまう。

コミュニケーションは煩わしさとセットのはず。
2層式の洗濯機の煩わしさから現在の洗濯機を生み出したように、
同じように簡潔で便利なコミュニケーションを生み出そうとしているのが現代の僕たち。

でもコミュニケーションは機械やビジネスではない。
簡潔で便利なものにしてしまって失われてしまったものが、
「ちょっとめんどくさいけれどおせっかいな誰か」によって救われていた人たちの日常だとしたら。

コミュニケーションや多様性を大事にする姿勢は、
煩わしさや干渉、おせっかいといった要素がワンプレートでやってくるのだから、
僕らが失ってしまったものは結構大きい。

今からでも遅くないと信じたい。

小野トロ


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