中村雅紀 / Masaki Nakamura
ただの日記だね。
毎月更新のスマホ向け有料カレンダーでっす。
「本当は歌いたかったのかもしれない。」 絵を描きながら、そんなことを思う時がある。 歌が放つエネルギーや解放感は人々を魅了する。 それを目の当たりにするたび、 絵は音楽に勝てないのではないか? などと考えてしまったりするのだ。 そんな音楽への憧れや嫉妬を 僕なりに表現したのがこの柄と詞だ。 曲にリズムがあるように、柄にもリズムがあると思った。 詞のついた柄は、まるでお気に入りの一曲のように 特別なものになるかもしれない。 これは僕にとっての“音のない音楽活動”なのだ。
「生活リズムを整えよう」とこれまで何度言っただろうか。そして何度崩れていっただろうか。朝早く起きて、夜早く寝る。それだけで何か起こるのだろうと思ったけど、別に何も起こりはしなかった。 それでも今また、朝早く起きて夜早く寝る生活をしている。といっても起きるのは7時過ぎで、寝るのは12時ぐらい。普通といえば普通だけど、僕は自営業なのでそれをキープするのは意外と大変だったりする。 で、何かいいことが起こったかと言うと、いつも通り別に何も起こっていない。だけれど生活リズムを作るこ
パートナーが小さなお店を開いていて(小料理屋とかカフェとか雑貨屋とか、なんでもいい)僕は裏方。印刷物をデザインしたり、SNSやウェブショップを運営したり、忙しい日は店舗を手伝う。 そんな暮らしができたらなぁ幸せだなぁなんてことを昔よく考えいた。最近またそんな妄想をよくしている。 僕は昔から脇役が好きだ。ゲームでは味方をサポートするロールが好きだし、AKIRAでは金田や鉄雄ではなく山形が好きだ。 中学校の頃していたサッカーでは足が比較的早いという理由でフォワードをしていた
僕にも遠い昔、お付き合いをしていた女性がいた。彼女は明るく前向きで、誰からも好かれるようなタイプだった。そんな彼女が僕によくこう言った。 「〜でいい」じゃなくて、「〜がいい」と言って欲しい。 例えばご飯のメニューを決める時。僕はだいたい「オムライスでいいんじゃないかな」というような言い方をしていた。彼女はその度に「オムライス“が”いいんだね」と僕の方を見て返事をする。 そんなところが僕は好きだったし、その姿勢を見習うべきだとも思った。だからできるだけ「が」を使って話すよ
毎晩布団に入るとき、毎朝布団から出る時、声をかける人がいるだろうか。「おやすみ」や「おはよう」という言葉をかける相手がいるだろうか。 僕にはいない。それは恐らく“生活”という世界で僕は孤立してしまっていることを意味している。 友達はいる。毎日のように遊んでくれる優しい友達はいる。でも、友達と遊んでいる時間は、生活とは少し違う。 僕が思う“生活”は、友達から離れている時間だ。朝起きたとき。朝ごはんを食べるとき。部屋を掃除するとき。お昼ご飯を食べるとき。昼寝するとき。夕ご飯
「喜びのリバウンド」という言葉を知っていますか?僕は知りません。今適当に作ったので。でも「楽しかった次の日がやたらと寂しい」と感じる時は誰にでもあると思います。 どれだけ昨日の夜が楽しかったとしても、寝て起きれば自分の日常がそこにあります。それなりに日常に満足しているなら、「昨日は楽しかった!今日も頑張るぞー!」となるのですが、もし日常に何かしらの問題を抱えているなら、「昨日は楽しかったのに今日は‥」となってしまう。 これは夜が楽しければ楽しいほど落差が激しくなるので、次
こんにちは、今日も雑念を振り払うためnoteです。 実は最近、全く絵を描いていません。何度かキャンバスに向かったのですがどうも筆が進まず、やがて描こうともしなくなってしまいました。(それはさすがにダメですけど)今年の4月に軽井沢ニューアートミュージアムで絵を展示して以来、作品といえるものは1つも描いていません。 いつもそうなのですが、僕は過去に描いた絵を1つも愛せたことがありません。見返しても「なんでこんなの描いたのだろう。何が良いと思ったんだろう。」と全否定してしまうの
お久しぶりです中村です。ちょっと最近雑念が多くて仕事にも身が入らない日々。こういう時は文章を書くに限る!ということで久々の更新です。 さて今日は「彼女ほしい」という言葉について考えてみようと思います。 人はなぜ恋人を欲しがるのでしょうか。人は1人でも死ぬわけではないです。それなのに僕らは一生を共にできるバートナーと出会うことを心から望み、苦しみ、時に涙まで流すわけです。 性的な欲求を満たしたいとか、そういう動物的な理由もあるでしょうけど、精神的な面でも僕らには逃れられな
最近気付いたのですが、僕は相当薄情な人間です。(唐突) 人は褒められると嬉しいですよね。僕も嬉しいし、そのために生きているようなところもあります。でも、その喜びをすぐ忘れるんです。 仕事で褒められても、展示で褒められても、翌朝にはその喜びはどこかへ消えています。もう一度その喜びを噛み締めようとするのですが、味がしない。一度消えた喜びは、もう僕の元には戻ってきません。せっかく頂いたのに、本当にすみません。 普通はその喜びを忘れず糧にして、積み重ねて、どんどんと前に進むんだ
今日も悲しいニュースが飛び込んできました。先に言っておくと、主張したいわけでも議論をしたいわけでもありません。ただの陰気な日記です。 ーーー もう僕の頭はバグっでしまって、なぜ「死を選ぶ」ということが世の中的に良くないとされているのかも分からなくなってしまいました。 人の死は悲しいものです。今日もたくさん悲しいという言葉を目にしました。僕にも「この人がいないと悲しい」という人はいますし、僕がいなくなると悲しんでくれる人も数人はいるでしょう。いるよね。 でも、それはあく
ネット上での発言について、いわゆる「ヘイター」について議論されておりますが、ビリー・アイリッシュ先生が素晴らしいメッセージを発しております。 タイトルにもなっている「あなたの意見は私の責任ではない」という言葉。これが本当に素晴らしい。この言葉がもっと早く世に出ていれば、救えた命があったかもしれないと思うほどに。 言論の自由という言葉をよく目にするけど、僕は受け取る側も同じぐらい自由だと思っている。そして自由であるということは、責任があるということだ。 言葉ならまだいいか
先日1人で餃子を作りまして。 これが、とても寂しい。餃子は美味しいし正義だ。SNSのプロフィールにまるで肩書きのごとく「餃子」と書く人がいるぐらい、国民的な食べ物。でも、1人で食べる手作り餃子はセンチメンタルな味がする。 スーパーで買った冷凍食品のを家でチンしたり、王将のを買って帰ってきたりもしたことがある。美味しいなぁと思って食べる。でも「手作り餃子」は別なんだ。 味は美味しいし、美味しいと嬉しい。でも、寂しい味がする。そんなものを包んだ覚えはないのに、寂しい。 昔
人生で「1番自分が弱かった」と思う時期がある。小学生の頃だ。僕はいじめっ子グループに属していた。いわゆるガキ大将側に着いていた。いじめられるのが怖くて、その子に嫌われないように機嫌をとる日々だった。 そのガキ大将も根は悪くなかったから、例えばトイレに閉じ込めて上から水をかけるとか、カツアゲするとかはなかったんだけど、ドラえもんで言うところのやはりジャイアンで、僕はスネ夫だった。そしてスネ夫は何人もいた。 今でもそういった過去を思い出しては部屋で1人変な声を静かにあげたりす
日記を更新し始めて2ヶ月が経ちました。どうでもいいことから、反対側のどうでもいいことまで色々とお話しましたが、1人でずっと家にいる生活をしてるので、正直ネタもなくなってきまして。。 猫様もお家にやってきて、彼もかなりストレスを抱えながら必死に慣れようとしており、僕も色々と心配で脳みそのメモリをそっちに使っているのも大きいです。本当に色々と手に付かないの(笑) ということで、毎日更新はとりあえず終了しようかと思います。Instagramで自画像も描き始めて、そちらを日課にし
実は数日前から猫ちゃんを迎えました。2歳の男の子です。まだ写真はありません。まが僕を見ると怖がってしまう状況なので、信頼関係が出来たらアホみたいに写真を撮ると思います。彼のことはその時にゆっくりご紹介します。 もともと外猫だったこともあり、かなり人間に対して臆病です。撫でるどころか触れることすらできません。まだ1週間もたっていないので状況は変わりませんが、僕が寝たふりをして眺めているとリラックスした表情をしてくれるようになってきました。目をやった瞬間「こっちくんな」という顔
「もっと声をあげるべきだ」といろんなところで聞こえてくる。確かにそう思う。けど、みんな言葉を強いものだと思ってそうで、怖いのもよくわかる。僕もどちらかというと、あげないタイプ。 もし間違ったことを言ったら?私の考えがおかしかったら?そんなことを考えながら生きてる。なぜなら誰かが怒るから。そして怒る人は怖いから。 「おまえはわかってねぇ」と顔の見えない人間から、無責任な電波に乗せてとんでもない数の罵声が生まれていく。SNSではその恐怖が日々増大している。 昔どこかで誰かが