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生活という世界で僕は

毎晩布団に入るとき、毎朝布団から出る時、声をかける人がいるだろうか。「おやすみ」や「おはよう」という言葉をかける相手がいるだろうか。

僕にはいない。それは恐らく“生活”という世界で僕は孤立してしまっていることを意味している。

友達はいる。毎日のように遊んでくれる優しい友達はいる。でも、友達と遊んでいる時間は、生活とは少し違う。

僕が思う“生活”は、友達から離れている時間だ。朝起きたとき。朝ごはんを食べるとき。部屋を掃除するとき。お昼ご飯を食べるとき。昼寝するとき。夕ご飯を食べるとき。皿を洗うとき。お風呂に入るとき。夜眠るとき。

そういった時間に、当たり前のように声をかけれる人がいない。これはとても辛いことだと、ようやく理解し始めた。

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友達との時間は有意義で、生きる上で欠かせない。でも、帰るところは僕の生活で、友達にもそれぞれ生活がある。友達と生活は共にできない。

友達とはいい距離感が大事だ。近すぎるとどこか一歪みが生まれるし、恋愛対象になり得るなら冷静ではいられなくなる。ある程度の浅さが必要で、それが末長く、仲良くできる秘訣なのだろう。

仮に友達と深く長く楽しい時間を過ごしても、帰る場所が孤独なのであれば、反動で帰った時のダメージがでかくなる。

そうなればもう、僕らは友達ではいられなくなる。

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孤立した夜は出来るだけ布団にくるまり、空気から体を遮断しようとする。それでも布団と体の間には埋まらない空間があって、そこに冷たい風がどんどんと入ってくるような感覚がある。

それを埋めるのが生活だ。「おはよう」とか「おやすみ」とかいう当たり前の言葉だ。生活を共にできる人がいれば、心がしなやかになる。多少の落差なら、うまく着地できる。

生活が愛とか幸せとかを作るんだろう。そんな感じがする。なんの根拠もないけれど。まずは生活なんだ。

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