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薄情

最近気付いたのですが、僕は相当薄情な人間です。(唐突)

人は褒められると嬉しいですよね。僕も嬉しいし、そのために生きているようなところもあります。でも、その喜びをすぐ忘れるんです。

仕事で褒められても、展示で褒められても、翌朝にはその喜びはどこかへ消えています。もう一度その喜びを噛み締めようとするのですが、味がしない。一度消えた喜びは、もう僕の元には戻ってきません。せっかく頂いたのに、本当にすみません。

普通はその喜びを忘れず糧にして、積み重ねて、どんどんと前に進むんだと思います。ですが僕の場合は眠っている間にスッと体から抜け出てどこかへ消えていくのです。なんでやねん。本当にすみません。

そんな感じだから、そもそも「誰かのために」という発想が欠落してしまっているように思います。誰かのために何かを作っても満たされない。それどころか、褒めてくれる人を裏切り続けることになる。

「じゃあ最初から何も作らなければいい。」そんな発想になってしまうわけです。これは一種の呪いかもしれません。

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振り返れば、僕が「誰かのために進んで動く」ときはかなり限られています。好きな女の子ができた時は、急にランニングしたりします。単純に格好良くなろうとします。(最初から走っとけとかは言わないで。)

昔はゲームの発売日にゲーム屋さんに走ったりしましたが、今はダウンロードできるので動きません。ほとんどの人にとってはどうでもいいことのように思えますが、僕にとっては貴重な「心の躍動」でした。

これぐらいしか思い当たりません。本当に。「好きな女子とゲーム」ぐらいしか自分の体が前のめりになることが無いのです。あと最近は愛猫ですかね。うちの猫、かわいいんだわ。

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先日ようやく『梨泰院クラス』を鑑賞しました。

とても面白くて、それと同時にずっと叱られているような気分にもなりました。生きる意味が明確にあり、それに対してただひたすらと前に進み続ける主人公セロイの愚直さに劣等感を抱えざるを得ませんでした。

「自分の価値を自分で下げて安売りするバカめ」

このセリフを聞いた時は、リアルにごめんなさいと言いました。彼を生かしたのは「復讐」という理由ではあったものの、決してダークサイドに落ちることはなく芯を通し続けて、立ち止まることは一度もありませんでした。

僕はほとんどの時間、立ち止まって過ごしているように思います。ここ数年は「前に進む」ということを全くしていない気もします。そんな僕にとってセロイという人物は眩しすぎたのかもしれません。

しかし、背中を押された気がしたのもまた事実です。あと、ヒョニがとてつもなく好きです。サランヘヨ。

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みんなには「生きる意味」はありますか?人生を捧げるべきことがありますか?そもそも、そんなもの必要なのでしょうか?

「生きてさえいればそれで十分。」そう割り切れたら、楽しく生きれるのかも。でも、誰かのために生きないと生活はできないのが世の常です。じゃあ僕のような薄情な人間は一生満たされずに生きるしかないのか?うーん、絶&望。

しかし、そんな僕でも心に残る言葉があります。「救われた」という言葉です。片手で数えられるぐらいですが、絵や言葉を見てそう言ってくれる人がいました。その言葉はいつまでたっても心に残っています。

恐らくですが、僕が生きる目的にできるのって、これなんだと思います。カッコいいものとか刺激的なものもいいけど、僕は優しいものを作って「救われた」と言ってもらうこと。これほど幸せで贅沢なことはない気がします。こう思えるのは、僕が救われ続けて生きてきたからかもしれません。

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別にわざわざ言うことでもないと思っていたのですが、わりと関係するのでうちの猫の話をします。うちの猫(しらかばくん2歳)は所謂キャリア猫です。今エイズの潜伏期間で、発症すれば免疫が落ちていろんな病気にかかりやすくなります。潜伏期間は様々で、発症せずに生を全うする猫もたくさんいるそうです。

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彼がキャリア持ちだと判明したのは引き取る直前の再検査でした。引き取る当日に陽性だと伝えられたのです。保護主さんは考える時間を設けようとしてくれましたし、僕も初めての猫がキャリア持ちということに不安を覚えて少し悩みましたが、引き取るとわりとすぐに決めることができました。

僕は昔から母に看病されて育ちました。だから「ここで断るようなことがあれば、母に合わせる顔がいよいよなくなる…」そんな気がしました。猫が寝込み看病の生活になっても、僕はやれると思えました。

僕がそうやって生かされてきたからです。ここで断るようなことをすれば、その時間を否定するような気がして、それだけはダメだと思ったのです。

ちなみに実際のオカンは猫が苦手だそうです。多分犬も苦手。写真を送ると「見るぶんには可愛いなぁ」と言っていました。

母にはキャリア猫であることは伝えてないですが、保護猫だということを伝えると「あんたらしいわ」と言っていました。正直ちょっと嬉しかったです。

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僕が誰かに救われて生きてきたからこそ、「救われた」という言葉に価値を感じられるのだと思います。そして「救いたい」という欲求も僕の中にはあると思います。

僕もそこまでできた人間ではないし、結局自分が1番大事マンブラザーズなので、自分のために生きるという自己中な性格は治らないと思います。でもそれでも、手の届く範囲で救える人がいるなら救いたい。

自分のために生きながら産まれたものが、やがて「誰かのために」なるのであれば、僕の人生も少しは良いものになる気がしないでもないです。そこまでいけるのかはわかりませんけど。

オシャレだったりかっこよかったり、そういう喜びもありますが、僕にとっては一過性のものでした。そういうのは、本当にオシャレでカッコいい人たちにお任せします。

僕には僕の生きる意味が、きっとあるはずですので。30年以上生きてるのに、見つかってない人もここにおるで。

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