自己紹介2

前回ふと思い立って自己紹介を書いてから、2ヶ月以上も時が経過しており、気付いたら私は1つ歳を取ってしまいました。気分屋人間の生態、恐るべしであります。前の続きの大学受験編から書きますが、非常に長くなる予感がします。そして、最後まで読んでくれた皆さんが一体何を思うのか気になるので、感想を届けてくれたら嬉しいです。

高校時代(受験編)

部活漬けの青春の日々も終わり、朝はほぼ始発で学校の自習室で勉強、夜は塾の自習室で閉館の22時まで勉強という日々がスタートしました。私はド文系でしたが、これと言って得意な科目がある訳でもない、何でもそこそこできるけど結局何にもできないいわゆる“器用貧乏型”でした。学校にも塾にも一緒にセンター試験に向けて取り組んでいる友達がいたので、そこまで勉強は苦ではなかった気がします。

担任の勧めもあり、私は国立大学の推薦試験をまず受験することとなりました。私がその時志望していたのは体育系の学部だったので、受験対策は勉強というより面接練習と体力作りでした。面接練習が始まり、後半では校長先生と1対1の模擬面接がありました。模擬面接後、校長に「こんなんで受かる訳がない。酷すぎる。」みたいなとにかく激しめの言葉を浴びせられ、目から涙がこぼれ落ちないよう、必死に机の下で自分の太ももの皮膚を抓って己の感情に抵抗しました。部屋を出た時には太ももがアザだらけだった記憶があります。そこから毎日面接練習を重ね、最終的に校長先生からは「これなら大丈夫、私が指導した生徒で推薦に落ちた人はいない。」的なことを言われました。

推薦試験

推薦試験当日、面接にいたのは部活で全国大会優勝の成績がある子やプロのスポーツ選手を目指しているような子ばかりで、一瞬にして自分の場違い感を感じ取ってしまいました。それでも何とか周りの期待に応えたいという思いもあり、面接は乗り切りましたが、次に待ち受けていたのがまさかのシャトルランでした。過去の試験でもシャトルランを実施した記録はなかったので、正直予想外で焦りました。確かに昔は短距離より長距離の方が得意だったし、シャトルランで満点を取ったことも何度かあります。そうは言っても部活を引退してからブランクもあり、日頃運動をもうしていなかったので当たり前に全然走れず参加者の中では結構な前半で脱落してしまいました。

結果は文句なしの不合格。予想の範疇だったので、そんなに自分自身ショックは受けませんでした。「推薦で入れれば勉強しなくて済むからラッキーだったけどやるしかないかあ…」そんな気持ちで、センター試験に向けての勉強を再開しました。

ある日、私は塾でチューターと面談をしなければならない日がありました。主に模試後に面談は行われており、私が通っていた塾は現役生と浪人生のどちらも通っているような塾だったので、その日隣の席ではとある浪人生がチューターと面談をしていました。隣の席のチューターと浪人生の「◯◯(浪人生)どうした?今回の模試、点数ガクッと下がってるじゃないか。なんかあったのか?」「いや〜実は…前日彼女にフラれて集中できなくて…(笑)」という会話が、自然と耳に入ってしまって浪人生と目が合ってしまいました。その浪人生は私と同じように毎日22時まで塾の自習室を使っていたので、ある時帰りのタイミングが被ってしまったことがありました。「ねえ、あなたさ、人間嫌いでしょ?」と突然声をかけられて、「は?何なんだこの失礼な人間は?」と思いました。浪人生から私はそう見えていたのかよくわかりませんでしたが、そこからその浪人生とよく話すようになり22時になって塾を出てから駅までの数100mの距離を一緒によく歩きました。

センター試験前日。いつものように浪人生と塾からの帰り道を一緒に歩きました。駅に着いて明日の試験頑張ろうという話になったので、こっそり用意していたチョコレートを渡しました。確かDARSだった気がします。当時の私としてはとてつもない勇気を出した行動でしたが、気の利く言葉は何もかけられず無愛想に「はいこれ、じゃ、また」って感じで帰宅したと思います。そして、センター試験当日。あまりセンターの記憶が残ってないですが、私が受けたのは国・数(IA・IIB)・英・世界史・現代社会・生物化学基礎、だったような気がします。とにかく世界史で思うように点が取れなくて悲しかったというのだけは覚えており、全体の点数は目標点には届かず2次試験でどこまで挽回できるかという割と危機的な状況でした。あと、翌日塾で浪人生に会ったら「あのさ、言えなかったんだけど、俺、チョコ苦手なんだよね。でも我慢して全部食べた!」と言われて草でした。いやそれは言ってくれよ。

センター試験後

学校は自由登校となり、前期試験に向けてみんなが黙々と勉強する中、私がやらなければならなかったのは2次試験に待ち構えている実技試験の対策でした。体育系の学科を第一志望としていたので、陸上と球技それぞれ1つずつ競技を選択して実施するというのが2次の試験内容でした。球技の種目は事前選択制で、部活でやっていたテニスは選択肢になかったので、まあまあ得意だったバレーボールを選びました。陸上の方は当日選択制でしたが、長距離以外自分にできるものはなかったので長距離だなと迷わず心に決めていました。テニスシューズしか持っていなかったので、近所にある大型のスポーツ用品店でナイキのランニングシューズを親が買ってくれました。そして、運の良いことにテニス部の顧問の先生が、趣味でマラソンをやっており大会にもいくつも出場しているような人だったので、センター試験が終わってからは顧問とマンツーマンで走り込みをする日々でした。そんな感じで日中は学校で長距離走の練習をし、放課後は叔母さんがキャプテンを務めているママさんバレーの練習に混ぜてもらってバレーの練習をするといった運動漬けの毎日を送りました。

推薦試験のシャトルランで自身の体力の低下を痛感したこともあり、私は電車通学をやめて自転車で通学することにしました。家から学校までは、往復16kmほどの距離でした。いつも通り、長距離の練習を終えて自転車に跨り家に向かって漕ぎ出し、学校を後にしました。夕方17時、18時頃だったでしょうか。あたりは暗くなっておりペダルの回転の速度が気持ち普段より速かったような気がします。学校と家のちょうど中間くらいに位置する、割と傾斜が急な下り坂へと到達しました。その時自転車で歩道を走っていたのですが、数100m前にぼんやり歩行者がいることが確認できたのと、本当は自転車は歩道ではなく車道の脇を走らないといけないんだよなと思ったことから、歩道から車道に降りることを決めました。下り坂だったので、猛スピードで駆け下りている最中にハンドルの向きを変えて車道に降りようとしたその瞬間、自転車が何かに思い切りぶつかって私の手からハンドルは離れ、体は宙に舞ってドサッという鈍い音と共に右腕から車道に落ちました。

街灯が乏しかったこともあり見えていなかったのですが、車道と歩道の間には縁石があり私はブレーキをかけずただ一人猛スピードで縁石と正面衝突したのでした。周りに歩行者はおらず、車道に倒れた私を避けるように車が何台か通り過ぎていきました。何が起きたか一瞬分かりませんでしたが、とりあえず起き上がらねばと思い、起き上がって前方でカラカラと車輪が回っている深緑色の自転車を撤収しました。軽いパニック状態になり、ひとまず誰かに今起きたことを報告したいと思い、気付いたら母親に電話をかけていました。事情を説明したところ、「今日もバレーの練習があるんだからとりあえず早く帰って来なさい」と言われて電話は切られてしまいました。自転車に跨ってみたら、ハンドルが右方向に曲がっていました。そのまま漕ぐと、常に右に進んでしまうので良い感じに左にハンドルを切りながら漕ぐという高度なテクニックが必要な状態でした。転んだ直後はアドレナリンが分泌されていたのかあまり気付きませんでしたが、右半身が痛すぎて右手ではハンドルを握れなかったので、左手のみでそのテクニックを習得しながら帰宅しました。

家に帰って明るいとことで確認したら、右足は擦り傷だらけで落ちた時の衝撃で靴下は擦り切れていました。母に「バレーの練習今日もあるでしょ?」と何とも鬼畜な発言をされましたが、とてもオーバーハンドパスができる状態ではないと判断し、練習は休ませてもらいました。夜ご飯を食べようと右手で箸を握った瞬間、腕に激痛が走りました。痛みでとても箸を口まで持っていける状態ではなく、その時初めて「ひょっとしてこれはかなりヤバいのではないか…」と事の重大さを感じ取り、食卓で泣きました。悲しいことに、家族は全然心配してくれませんでした。

どうやってその日ご飯を食べたのかは覚えていませんが、普通にお風呂に入って普通に眠りにつきました。次の日の朝、右腕の痛みが全く治っていなかったので「まだ痛いんだけど…」と言ったら、兄に「病院に行って問題ないって分かれば勉強に集中できるんじゃない?」と皮肉を言われて病院に行く許可が下りました。母は仕事だったので、行きだけ車で送ってもらい病院には一人で行きました。レントゲンを撮り終えて診察室へ向かうと、医者に「うん、右肘折れてますね!骨折です!今日からギプスね〜」と軽く言われ「これ折れてるの肘で、肘の骨は手首と連動してるから二の腕から指まで全部固定ね〜」と問答無用でギプスを巻かれました。私の思考は完全に停止しており、三角巾を首の後ろで結ばれ肩から吊りながら帰りはバスで家に帰りました。片腕を固定されてしまったので、バスを降りる時に小銭を出すことができず優しい運転手さんが「お嬢ちゃん、腕大変だねえ」と言って、手伝ってくれました。

家に帰ったら誰もいませんでした。ただ視線を下げるとそこには真っ白い布に覆われた自分の右腕が確かにありましたが、17歳の私はそれを現実の事象としてすぐに受け入れることはできませんでした。ボーッとしていると、そのうち母が帰宅してきました。なんと声をかけられたかはハッキリと覚えていないですが、「まさか折れていただなんて…」みたいな感じだった気がします。徐々に、「これは現実なんだ…実技試験なんて受けられるわけがない、自分の未来は閉ざされたんだ、もう大学受験なんてどうでもいい、大学なんて行けなくてもいい」そんな感じで全てを投げ出して放棄したい気持ちになりました。

「学校に行くから車に乗りなさい。」母にそう言われて、無言で車に乗りました。職員室に入り、部屋の視線を一気に集めました。担任の先生と顧問の先生に状況を報告し、別の部屋に移動しましたがそこには重い空気が漂っていました。この時、センター試験が終わりもう既に志望校に願書を提出してしまっている状態だったため、試験内容を考慮して志望校を変更するには遅すぎました。先生たちと願書を提出した志望校の資料を読み返していると、「不慮の事態・事故が発生した場合」というような注意書きが書いてあるページがあり、担任の先生が大学に問い合わせてくれました。問い合わせた結果、「試験内容の変更は不可、試験に来ないと棄権となり受験資格を失うこととなるので試験には来てください」とのことでした。「うーん…ここは地獄か?」と思いました。私は一体前世でどれだけ徳を積まなかったのだろうか、と。試験に行っても何もできない、落ちることは確定しているのにみんなに注目され噂され、そうなることが目に見えているのに会場には足を運ばなければならない、一体全体どんな生き地獄だよ、と思いながら、もはや「悲しい」という感情はとっくに超えており感情は「無」となっていました。

ギプス生活が始まり、自分で髪の毛を洗うことができないため母が毎日洗ってくれました。部活を引退してショートカットからロングヘアにしたくて髪を伸ばしていましたが、髪が長いと洗ってもらうのが大変なので泣く泣く髪を切ってまたしてもショートヘアに戻しました。骨折してから初めて教室に入った日の朝、クラスはざわつきました。みんなどんな声をかけるべきか分からない様子で、複雑な心境にさせてしまっていることが逆に申し訳ないという気持ちでした。廊下のロッカーの前で、仲が良かったSちゃんが話しかけてきてくれて、何が起きたか事情を話すとSちゃんはその場でポロポロと泣き出してしまいました。「推薦の時から〇〇が頑張ってる姿をずっと見て応援してきたから、本当に悔しい」と言ってくれて、こんなに自分のことで感情的になってくれる友人が自分にはいるんだと思いながら、私も一緒になって泣きました。

前期試験

母は大学受験を受けたことがなく一緒に行くと心配でどうにかなってしまいそうだということで、前期試験には母ではなく兄が付き添いで付いてきてくれました。県外の大学だったので前泊し、どんなに来るなと願っても試験当日の朝はやってきてしまいました。死ぬほど行きたくなさすぎて、大学の正門の前まで来てバックれてやろうかと本気で思いました。こんな消化試合に果たして行く意味はあるのだろうかと疑問で仕方ありませんでした、が、バックレる勇気もなかったので、「今の自分は間違いなく世界一憂鬱な人間だろう」と思いながら仕方なく大学の門をくぐりました。

体育館に入ると、案の定周囲の視線を独り占めしました。大学側は私の状況を認識しているはずなので、恐らく見学しろとか指示が出されるのだろうと予想していましたが、受付では特に何も言われず試験は始まってしまいました。

午前中は陸上競技でした。まず受験者一同整列させられ、一人ずつ受験番号を呼ばれてどの種目を受けるかの宣言していきました。「これは私も種目を言うのか…?いやこの腕の状況じゃなにもできないし、流石に見学だよな…?私の番になったら何か言われるのだろう…」と思っていたら、私の番がやって来ました。「種目はどれにしますか?」と先生に聞かれて、一瞬頭が真っ白になりました。「これは私もやるということなのか…?もし、もし仮にやるとしたら…種目は短距離・長距離・砲丸投げの3つ…。利き手が使えない状態でまず砲丸投げは一番無理…となると、長距離よりは短時間で終わる短距離の方がマシか…?」と思考を巡らせて、「た…短距離で…」と小声で答えました。全員の種目の選択が完了すると、ウォーミングアップの時間が始まりました。それでも試験監督の先生たちからは何も声をかけられなかったので、自分から話しかけにいきました。「すみません…私腕を骨折してしまいまして…」「ああ君のことは聞いているよ。腕は痛むのかな?」「そうですね…まだ痛みはあります。」「そうか。君は短距離選択だよね。でもね、走らないと記録が残らないから、歩いてもいいから走ってくれるかな?」「え…あ、はい…わ、分かりました…」

正気か?この腕の状態で走るのかよ…と思いましたが、言われたようにするしかないので選択肢は「走る」一択しかありませんでした。周りの「あの子どうするのかな」「あれで走れるのかな」という野次馬のような視線をヒシヒシと感じましたが、この時はもう「やるしかねえ…」という無双モードに突入していたので周囲のことはそこまで気にならず、言わばヤケクソ状態でした。そんなこんなで、100m走のテストが始まりました。4レーンあり、私は3レーン目でした。首から吊り下げていた三角巾を解いて、ギプスでガチガチに固定された右腕を脇腹にピッタリとくっつけてなるべく負荷がかからないように、動かさないように走りました。無心で、ただ前だけを見てあっという間に走り切りました。結果は、4人中なぜか3位でした。悔いはありませんでした。

それよりも問題は、午後に待ち受けている球技の試験です。陸上はなんとか走り切ったとはいえ、流石にバレーボールはそうはいかないなんてことはIQの低い私でも分かりました。走り切った後、試験監督をしていた先生にまた話しかけました。「あの…午後の球技なんですけど…」「ああ、君は球技は何選択だったっけ?」「バレーボールです。」「そうか。…まあバレーボールならルール上は手だけでなく、足も使えるからね…頑張って(笑)」

極めて屈辱的でした。なぜこんなことを言われなければいけないんだろうという怒りの感情と、え、マジで私は足でバレーをやるのか?という不安とで今までに味わったことのない感情となりました。バレーボールの試験監督の先生は短距離走にいた先生とは違う人で「君は…見学で良いかな?」と言われ、結局椅子に座って見学して終わりました。この日のことは一生忘れないと思います。

前期試験も文句なしの不合格。はっきり言って、私はこれまでの人生でここまで思うように結果が出ないという経験がありませんでした。プライドはズタズタに裂かれ、大学受験へのモチベーションは当たり前に皆無でした。それでも、私の感情なんて無視して時は過ぎ去っていくもので、次に待ち受けていたのは中期試験と後期試験でした。母はなんとか私に前を向いてもらいたいと日々ポジティブな言葉をかけてくれました。気持ちはありがたかったですが、だからと言ってすぐに前を向いて切り替えられるものではなく、当時母には冷たい態度をかなり取ってしまったと思います。

中期試験の内容は小論文で、後期試験は面接でした。私の利き手である右腕は指の第二関節から肩までギプスで固定されていたので、まず、鉛筆を持つことが困難な状態でした。母は、鉛筆に布を巻いて太くして持ちやすくなるように工夫を施してくれたりとサポートしてくれましたが、その優しさと温かさが若干プレッシャーでもありました。なんとか鉛筆を握るコツは掴めましたが、文字を書くと、まるで利き手じゃない手で書いたかのような見事なミミズ文字がそこに描かれていました。そのため、文字を書く練習からスタートせざるを得なかったのですが、大事な受験期に自分は一体何をしているんだろう、自分の未来はどうなってしまうんだろう、と悲しさでも悔しさでもない感情でした。しかも中期試験の学校は、センター試験の結果的にD判定で、小論文で相当挽回できないと合格は厳しいという状況でした。

中期試験

試験日当日、正直小論文の対策というよりはほぼ漢字練習しかやっていないような状態でしたが、試験内容は長文を読んでその上でお題に沿った小論文を書けというようなものでした。お題によってかなり書きやすさが左右されるところでありますが、お題は「あなたの異文化体験を交えて文章の感想を書け」的な感じのやつで「これは…いけるかもしれない」と思いました。私は高校2年、3年と2回東日本大震災のボランティアに行ったことがあり、その時の体験を書こうとお題を見た瞬間に思いました。「異文化体験」というテーマからは若干ずれているような気もしましたが、必死に固められている右手で文字をつらつらと書き進めました。

中期試験の結果が出る前に、間髪入れず後期試験がやって来ました。幸いなことに後期試験は面接のみの学科に願書を出していたため、骨折しているかしていないかは関係なく初めてフェアな条件での試験となりました。面接対策に費やせる時間はそんなに残されていませんでしたが、推薦試験の時にこれでもかというくらい面接の練習はしていたので、案外面接は喋れるかもしれない…と思いました。

後期試験

後期試験の面接はグループ面接で、グループディスカッションも組み込まれていました。前髪をヘアピンで止めてくるのをすっかり忘れていて、学校のトイレで試みましたがなんせ腕が一本しか使えないので自分ではどうすることもできませんでした。そこにちょうど受験生の女の子が来たので、勇気を出して頼んだところ二つ返事で受け入れてくれ、「緊張するね〜」「本当だよね〜」なんて他愛も無い会話をしたことにより少しだけ緊張がほぐれました。

グループ面接では、面接官の先生に「君、腕はどうしたんだい?」と尋ねられ「街灯の乏しい下り坂で…」と説明する場面がありましたが、「ただこのおかげで周囲の人の優しさを感じることができ、自分がいかに恵まれた環境にいるかということを実感できる機会となりました」などと上手く話をまとめたような記憶があります。

一つのグループに6人くらい受験生はいて、私はグループの中で一番最後の番号だったので、基本的に他の人が答えている間に自分の回答の準備をすることができるという優位なポジションでした。しかし、「最近読んだ本で印象に残っているもの」といった質問の時だけ「じゃあ今回は順番を逆にして〇〇さんから」と振られ、想定外の一番手ということと全く最近本など読んでいないということからパニックに陥ってしまいました。一旦深呼吸をして、「少し考える時間をいただけませんか?」と尋ねたところ「では、一番最後にもう一度聞きますね。」と順番を最後にしてくれました。「うーわ、終わった」と思いつつ、今できる最大限をやろうと「最近読んだ本読んだ本読んだ本…」と頭の中で唱え続けたその時、「待てよ…本って…絵本でもいいんだよな?」と一つアイデアが降り注いできました。全員の回答が終わり、「〇〇さんいかがですか?」と聞かれたので、東日本大震災のボランティアの際に講演をしてくださった方が書いた「優しいあかりにつつまれて」という絵本を紹介したところ、面接官の一人が割と食いついてくれてホッと一息つきました。グループディスカッションでは、司会もタイムキーパーも立候補しませんでしたが、自分らしい発言はできたのでそんなに後悔はありませんでした。

合格発表

まずは中期試験の結果発表。結果は母と一緒にスマホで見て、まさかの合格で奇跡かと思いました。「小論文を読んだ試験官に、偶然文章がハマったのかなあ」なんて考えていたら、隣にいた母が安堵したのか涙を流していました。そして、数日後に後期試験の結果発表。なんとこっちも合格していて、私は二つも選択肢を得ることができたのでありました。担任の先生の元に結果を伝えに行くと、担任の先生も職員室で静かに涙を流し、「本当に…よく頑張ったね、おめでとう」と温かい言葉をかけてくれました。何を隠そう、私が後期試験で合格した大学は、担任の先生の出身校だったのです。選択肢が一つじゃなかったので少しだけ迷いましたが、私は後期試験で合格した大学に入学することを決め、無事に長く苦しかった大学受験期は幕を閉じました。

終わりに

8年ほど経った今、改めてこうして文字に書き起こしながら振り返ってみると壮絶すぎるだろと笑えてきます。あの時は自分自身のことで精一杯でしたが、一番大変だったのは横にいた母だっただろうなと思います。私の気持ちを理解しながらも、それでも鼓舞してどうにか前を向かせようと母は、母親として何をすべきかと色々な葛藤があったのでは無いかなと思います。

人生の中で戻りたくない時期トップ3には入るかなというのがこの時期で、もう一度やれと言われたらできないような気がします。18歳の自分、本当にお疲れ様でした。合格おめでとう。

この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?