064.マンモス中学

私が昭和47年(1972年)に入学した地元の中学校は、一学年の生徒数が550人ほどで、12クラス作っても、ひとクラス45人では収まらないマンモス校でした。親戚の人や近所の人から「入学おめでとう。何組になったの?」と聞かれて「はい、1年12組です」と答えると、みんな一様に驚いていました。

その私が驚いたのは、同校の卒業生で、ちょうど私たちよりひとまわり上で昭和22年(1947年)生まれの美術の先生によると先生がこの中学に通っていた時は戦後のベビーブームで、もっとずっと子どもの数が多くて1学年24クラスあり、授業は午前と午後の二部制だったということでした。

私にとって中学校の思い出といって、最初に思い浮かぶのはプレハブ校舎です。夏は暑く、冬は寒いのがプレハブ校舎の特徴でした。不公平にならないように、三学期ある内の一度は必ずプレハブ校舎になるように、学期ごとに教室移動がありました。それでも午前・午後の二部制時代に比べればずっとマシなんだから感謝するように、ということでした。

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中学校への通学路は、一面に広がる桑畑の中を斜めに横切っている、けもの道というか畦道というかどう見ても誰かの畑の中の道でした。私が住んでいた東京の西の郊外の土地は関東ローム層で水田耕作が難しいそうで、周りは畑ばかりでした。特に桑畑はあちらこちらにありました。

あの頃は気づきませんでしたが、今思えば、昭和四十年代は養蚕業がまた細々ながら行われていたのだと思います。そういえば小学校や中学校の社会の時間に、地域の産業として絹織物があると習った記憶もあるし、何よりその証拠に横浜から八王子まで「絹の道」が通っていました。

桑畑の手前の通学路には、ベニヤ板に貼られたストリップ劇場の月替わりのヌードポスターが、10メートルおきくらいに並んだ電柱にどこまでも針金で取り付けられていました。「今月は黒白まな板ショー! 乞うご期待!」などど宣伝文句がついていました。誰もポスターについては一言も触れずに毎朝毎夕通っていました。

ちょっと大雨が降ると、桑畑の横の五叉路は膝丈くらいに浸水していたので、制服のスカートを濡れないようにたくし上げてブルマーのようにパンツの中に入れ込んで、長靴の中までジャボジャボになりながら水の中を歩いて渡りました。学校に着いて上履きに履き替えてホッとしても、帰りはまた濡れた長靴を履いてジャボジャボ帰るのでした。

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あの頃、天気のよい日はほぼ毎日のように「光化学スモッグ注意報」が発令されていました。特に夏場は連日朝からで、外で運動が出来ないのでよく蒸し風呂のような体育館で体育の授業をやって、倒れる子が続出していました。これなら光化学スモッグの中でも校庭でやった方が多少はマシなのではないかと思っていたくらいです。

ただ、その校庭も、当時はベトナム戦争をやっていたので、軍用ヘリコプターがすぐそこの米軍基地に頻繁に離発着しており、離発着する際は爆音と共にヘリコプターの爆風で校庭の砂埃が舞い上がるため、ヘリコプターが近づいてくると、先生も生徒も全員体育の授業を中断し、人差し指で耳栓をしながら、ぎゅっと目をつぶり、しゃがみ込んでヘリコプターが通り過ぎるのを待たなければなりませんでした。それでも口の中にまで砂が入ってきました。

随分大人になって、フランシス・コッポラ監督の映画「地獄の黙示録」を観た時、「ワリキューレの騎行」の勇壮な音楽に合わせて飛んでくるたくさんの軍用ヘリコプターを見て、思わず「ああ、懐かしい」と思いました。

しかし、その校庭に、時々全校生徒、つまり、550人 × 3学年 = 1,650人程の生徒が整列させられ、先生方が物差しを持って女子生徒のスカートの丈を測ったり、男子生徒の学生服の上着の丈を測ったり、ズボンの襞の数を数えたりしていました。当時は、女の子のスカートや男の子の上着の丈は長ければ長いほど、またズボンもたくさんの襞を寄せてブカブカにすればするほど不良っぽくカッコいいとされていました。

先生方は、特に体育の教員は竹刀を片手に睨みをきかし、実際に上着やスカートの丈の長い生徒を見つけると竹刀で叩きのめしていました。昨今、ニュース映像で世界各地でデモ隊と警官隊が激突して、警官が丸腰の市民を棍棒で打ち据えている映像を見るたびに、私は自分の中学校の校庭を思い出してしまいます。

時々、何組の誰々が妊娠したから中絶のためのカンパをして欲しいという連絡が回ってきたり、突然、他の兄弟を残してひとりだけ転校していった子がいたり、オートバイの無免許運転で同級生が亡くなってしまったり、今思うと大事件が日常的に起きていました。

しかし私たち、少なくとも私は、この環境が特別なことだという認識はまったくなく、ごくありふれた中学生の日常だと思っていました。

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私たちのクラスの給食の時間は、頭の上をガラス製の牛乳瓶が飛びかい、五時間目が始まる頃には、黒板に投げつけられたいくつものミカンの跡と汁が垂れているのが日常でした。男子のズボンのポケットからは、繋がったジャムが手品のようにぞろぞろ出てきました。うかうかしていると給食を食いっぱぐれることもありました。

「衛生検査」という時間には、「ハンカチとちり紙」を持っているかどうかを調べるのですが、「今から衛生検査をします」となると、途端に何人かは、窓際のカーテンをハサミで切って「ハンカチ」にしたり、トイレからトイレットペーパーをクルクルと丸め取ってきて「チリ紙」にしたりしていました。カーテンはどんどんいびつな形になっていきました。

クラスにはいろんな子がいました。以前も書きましたが(036)至急職員室へ来てくださいとのいつも呼び出しを受けている複雑な家庭事情の子と同じ班で給食を食べていたし、九九が言えないとかアルファベットが言えないなんて子はクラスに何人もいました。そういう子は授業中は寝たり、落書きしたり、おならをして下敷きで扇いで周りの子にイヤがられていたりしました。

ただ、私の知る限り、あの頃の学校には「今で言ういわゆる『いじめ』」はありませんでした。いじめっ子やいじめられっ子は確かにいましたが、少し度が過ぎると必ず誰かが「いい加減にしろよ」「〇〇くん、もうやめなさいよ」と仲裁に入っていました。注意したら今度はその子がいじめられるという発想はありませんでした。

ある日の給食の時間、クラスの女子全員が給食も食べずに二手に分かれて、トイレで対決をしたことがありました。しかし、あれも「いじめ」とは違いました。その時、私自身は対立原因もよくわからなかったのでバカらしいと思い、その闘いに参加せず、ひとり男子に混じって給食を食べていたら、あとで首謀者のひとりから「八方美人」だとなじられて、それなりに傷ついた覚えがあります。けれども、いじめられたというのとは違いました。

あとから、どちらにも加担せず孤高を通したのは格好良かったと言ってくれた子も何人かいましたが、この時言われた「八方美人」は知らぬ間にかなりこたえたとみえて、後の人生で、私は今自分が八方美人になっているのではないかと、自問自答する癖のようなものがついてしまいました。思春期の出来事は些細なことでも人生を大きく左右するものです。「いじめ」問題は胸が苦しくなります。

そしてこれも私の知る限りですが、「不登校」という問題もありませんでした。三十代の頃、同い年の同僚男性と雑談をしていたら、彼は都心部の私立の中学高校に通っていたそうですが、「今にして思えば、もしあの当時『不登校』という概念があれば、学校に行きたくなかった。でもそういう概念がなかったので、どんなにつらくても毎日登校するものだと思って休まずに通っていた」と話してくれたことがあって、そういえば私の通っていたマンモス中学にも不登校者はいなかったと気づきました。

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忘れられない個人的な思い出もいくつかあります。ある日、私の持っていた「ベルサイユのばら」のコミック本がある教員の目に止まり、職員室へ呼ばれました。マンガやコミック本を学校に持ってきてはいけないとは決まっていませんでしたが、「学業に関係のないもの」の持ち込みは禁止されていました。例えば、売り出されたばかりで爆発的な人気を得ていたソックタッチなどです。

私はその時職員室で、私を見咎めた教員と、担任の先生と、社会の先生を前に、「ベルサイユのばら」はどれほど西洋史の理解に役立つかと、コミック誌を広げて具体例を挙げながら大演説をぶち上げて、遂に「ベルサイユのばら」は「学業に関係あるもの」に認定してもらうことに成功しました。フランスかぶれ全開でしたから、演説にも熱がこもりました。

もうひとつ忘れられない思い出のひとつに、進路について考えるという時間に、端から将来になりたい職業を順々に述べさせられたことがありました。その時、私は自分がどんな職業を挙げたか覚えていませんが、覚えているのは最後に学級委員の男の子が立ち上がって、「今日は大変有意義な時間になりました。僕は女子も将来のことを考えていてエライと思いました」と総括したことです。

私は大きな違和感を覚えました。これまで彼は、女子は将来のことは考えていないと思っていたのかと問い正したくなりました。しかも、彼はその発言が先生や仲間から称賛されると思っているようでした。あの時私は問い正したりしませんでしたが、だからこそ余計に半世紀経っても心の中で燻り続けてきたようです。

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あの頃は都心部はともかく、私の住んでいる東京の西の郊外では学習塾に通うという習慣はまったくありませんでした。(004)初めてのキッスでも書いたように、米軍基地が近かったので「ハウス」に英会話を習いに行っている子は何人かいましたが、大抵の子は放課後は運動部で暗くなるまでボールを追いかけ回したり、「重いコンダラ」でテニスコートを整備したりしていました。

私などは運動はからきしダメなので、図書館で本を読んだり、学校裏の今川焼きのお店にたむろして、一個30円の今川焼きと無料の麦茶で同級生と何時間もおしゃべりしているような中学生でした。そして、あの頃から(025)萩原朔太郎の「フランスに行きたしと思えども、フランスはあまりにも遠し…」という詩を日々口ずさんでいました。 

これまでも note に書いてきたように、(007)駅前の映画館に「風と共に去りぬ」を観に行ったり、(008)新宿ピカデリーに「エクソシスト」を観に行って、帰りに生まれて初めて見るハンバーガーを食べたり、(040)山口百恵のまごころに目頭を熱くしたり、(026)47年前のバレンタインデーには憧れの先輩にチョコレートを渡したりするといった、そんな中学生生活を送っていました。

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私が大学二年生の秋、圧倒的な視聴率を誇っていた日本テレビの「太陽にほえろ!」の金曜日八時の時間枠、つまり「金八枠」をなんとかするために、TBSで「金八先生」が始まりました。中学生の妊娠問題や腐ったミカンの校内暴力などが扱われましたが、熱血の金八先生以外の、事なかれ主義の教員たちの姿に私は既視感を覚えました。

私の知る限り、私の通っていた中学において「校内暴力」は、教員が生徒を恫喝し、竹刀でぶちのめしていた以外はありませんでした。学校のガラスが割られたことも一度もなかったし、卒業式が荒れるなどということもありませんでした。生徒間の喧嘩も聞いたことはありませんでした。

私の感覚では、少数の信頼できる先生方よりも、事なかれ主義の上に強権的だった教員についての記憶が強く、たとえば修学旅行の前日の体育の時間に、延々と校庭で「うさぎ跳び」をさせられ、京都奈良の神社仏閣の階段が拷問のようだとみんなで嘆き合った記憶の方が鮮明に残っています。

日本列島改造論が沸き起こり、狂乱物価の中、沖縄返還、日中国交回復、泥沼化するベトナム戦争、ドルショック、オイルショック、小野田少尉のルバング島からの帰還、三菱重工爆破事件、公害問題の深刻化などの世相を背景に、私たちはマンモス中学でティーンエイジを迎えました。


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