040.山口百恵のまごころ

山口百恵は、森昌子、桜田淳子と共にオーディション番組「スター誕生!」から芸能界にデビューして「花の中三トリオ」と呼ばれ、1970年代にアイドルとして人気者になりました。

彼女たちが中三の時、私は一学年下の中二でした。ですから「花の中三トリオ」はとても親近感の湧く存在でした。当時中学生や高校生の多くが読んでいた旺文社の「中一時代」や学研の「高一コース」などの学年誌は、大抵「花の中三トリオ」が表紙を飾っていました。特に山口百恵は早生まれだったので、同じ年に生まれたという一層の親近感がありました。

「新御三家」と呼ばれていた、野口五郎、西城秀樹、郷ひろみと共に、当時の中学生や高校生で「花の中三トリオ」を知らない子は誰もいないほど、圧倒的な人気を誇っていました。

1972年7月のデビュー曲「先生」が大ヒットして翌年の紅白歌合戦に出場した森昌子や、1973年2月に「天使も夢みる」でデビューし、同年8月の3枚目のシングル「わたしの青い鳥」で数々の新人賞に輝いた桜田淳子に比べて、1973年5月に「としごろ」でデビューした山口百恵は、当初あまり注目されませんでした。

2枚目のシングルは1973年9月1日に発売された「青い果実」という曲でした。歌詞は次の通りです。

青い果実
作詞:千家和也
作曲:都倉俊一

あなたが望むなら
私何をされてもいいわ
いけない娘だと
噂されてもいい

恋した時に 躰の隅で
別の私が 眼を覚ますの
大きな胸に 抱きとめられて
きれいな泪 こぼすのよ
側に居れば 側に居れば
誰も恐くない
あなたが望むなら
私何をされてもいいわ
いけない娘だと
噂されてもいい

恋した時に 心の中で
別の私に 生まれ変わる
恥しそうに 薄目をあけて
初めて秘密 打ち明ける
側に居れば 側に居れば
何もほしくない
あなたが望むなら
私何をされてもいいわ
いけない娘だと
噂されてもいい

私は初めてこの歌を聴いた時、私たちの世代の女の子全体が世間から「侮辱されている」と感じました。体の奥深くで屈辱感が頭をもたげ、そしてゆっくりと怒りが湧き上がりました。

けれども私は、この感情を言葉にしたことはありませんでした。十四歳になったばかりの私にとっては、このような性を連想させるようなことを、口にすることすら恥ずかしいことでした。友人たちの誰ひとり、この歌詞について語りませんでした。ただ、私たちの身の回りには、中三トリオの笑顔が溢れていただけでした。

この「青い果実」はオリコンベストテン入りしました。このヒットに続き「青い性路線」と名付けられた曲が次々に発表され、1974年6月には5枚目のシングル「ひと夏の経験」が発売されました。歌詞は次の通りです。

ひと夏の経験
作詞:千家和也
作曲:都倉俊一

あなたに 女の子のいちばん
大切なものを あげるわ
小さな胸の 奥にしまった
大切なものを あげるわ
愛する人に 捧げるため
守ってきたのよ
汚れてもいい 泣いてもいい
愛は尊いわ
誰でも一度だけ 経験するのよ
誘惑の甘い罠

あなたに 女の子のいちばん
大切なものを あげるわ
きれいな なみだ色に輝く
大切なものを あげるわ
愛する人が よろこぶなら
それで幸せよ
こわれてもいい 捨ててもいい
愛は尊いわ
誰でも一度だけ 経験するのよ
誘惑の甘い罠

この曲は大ヒットして、オリコン第3位となりました。

私はこの曲を聴いた時、「青い果実」より一層悪質さが増したと感じました。男性の欲望を女性の欲望ということにすり替えて、「据え膳食わぬは男の恥」とばかりに責任転嫁をしている歌詞だと思いました。私を含め、周りの友人誰ひとりとしてこの歌詞の内容を話題にしないことが、却って皆んなの無言の悲憤を物語っているように感じました。

大ヒットしたということは、世の中の男性は、私たち世代の女の子たちをこのように捉えていたのでしょう。

そんなある日、当の山口百恵がラジオでインタビューを受けているのを偶然耳にしました。「百恵さん、『女の子の一番大切なもの』って何だと思いますか?」という質問でした。それに対して彼女はこう答えました。「私は、それは『まごころ』だと思います」 私はそのインタビューを聞いて目頭が熱くなりました。

「まごころ」というのは、私が子どもの頃、近所の子ども用の図書館で借りて繰り返し読んだ絵本『リア王』の三女のコーデリアが、策を弄する姉たちとは違って、繰り返し父親のリア王に向かって言う言葉なのでした。「私はお父様に『まごころ』をもってお仕えします」 私も子ども心に「まごころ」を大切にしたいと思っていたのでした。

山口百恵は、これまでどれほどこの質問を受けてきたのだろうかと思いました。彼女の苦しさが伝わってきました。私はこの歌を耳にしただけで世の中の男性たちに侮辱されたと感じているというのに、彼女は一体どんな思いでこの歌を歌ってきたのかと思うと胸がつぶれる思いでした。

1970年代中頃は、「セクシャルハラスメント」という概念も言葉もない時代でした。

私はこの曲をめぐる自分の感情を言葉で表現することが長年できませんでした。性的な事柄を口にすること自体が憚られました。私は今ようやく、還暦になって初めて、十四歳の時の感情を言葉にすることができました。

山口百恵はこれらの歌ばかりでなく、「芸能界交歓図裁判」で法廷に立って発言したり、人気絶頂期に結婚で芸能界から引退した後も、カメラマン篠山紀信が名付けた「時代と寝た女」などという性的な表現で呼ばれ続けました。

◇ ◇ ◇

今回この note を書くにあたって、21歳の人生を振り返って山口百恵本人自らが筆をとったと評判だった本、『蒼い時』をインターネットで購入してみました。当時のことを書いた文章がありました。最後にこの本の抜粋を紹介します。

「あなたが望むなら 私何をされてもいいわ」
『青い果実』という歌の冒頭部分である。十四歳の夏も近い頃、事務所で「今度の曲だよ」と手渡された白い紙。期待と不安の入り混じった複雑な気持ちで、書かれた文字を追っていくうちに、私の心は衝撃に打ちひしがれてしまった。当時は歌謡界全体がいわゆる「かわいこちゃんブーム」と称されていた頃で、流行っている歌といえば「天使」や「夢」や「花」がテーマになっているものばかりで、活躍している同世代の女性歌手たちは一様にミニスカートの服を着て、細く形のよい足で軽やかなステップを踏みながら満面に笑みを浮かべて歌っていた。そんな中で、このような詩を私が歌ったら……。そんな罪悪感にも似たものが私の意識の中で頭をもたげていた。
「こんな詩、歌うんですか」
言ったか言わなかったかは、さだかではないが、口に出さないまでも、気持ちは完全に拒否していた。
 皆と違うように見られたら——幼い恐怖心と防御本能が私をためらわせた。
 そうはいっても私の躊躇など、ビジネスのシステムの中では何の意味も持たず、結局スタジオへ連れて行かれ、ひとりきりの世界へ閉じ込められてしまった。ヘッドフォンから流れてくるその歌のカラオケ、それに合わせて仕方なく歌った——つもりだったが、何故だかメロディーに乗せて歌ったとたん、さっきまでのためらいはすっかり消えていた。こんな歌——と思い悩んだ時から数時間しか経過していないというのに、私はその歌がとても好きになっていた。以来、私の歌は「青い性」路線といわれ、それまでのその年代の人たちとは変わったタイプの歌を歌っていくようになった。
「年端もいかない女の子に、あんな下品な歌を歌わせて」
「あの子は、意味がわかってるのかね」
「こんな歌じゃ、売れるわけがない」
あげくの果てには、
「不良少女」
そのおかげで世の大人たちに、ひとつの波紋を投げかけたような形になってしまった。
「あなたに女の子のいちばん大切なものをあげるわ」
『ひと夏の経験』、この歌を歌っていた時期が大人たちのさわぎのピークだった。インタビューを受ければ十社のうちハ〜九社までの人間が必ず、口唇の端に薄い笑いをうかべながら上目づかいで私を見て、聞くのだった。
「女の子の一番大切なものって何だと思いますか」
私の困惑する様を見たいのか。
「処女です」、とでも答えて欲しいのだろうか。私は全て「まごころ」という一言で押し通した。確かに歌として見た場合、きわどいものだったのかもしれないのだが、歌うにつれ、私の中で極めて自然な女性の神経という受け入れ方ができるようになっていた。もちろんその頃はまだ想像の域を脱してはいなかったのだが、それでも女の子の微妙な心理を、歌という媒体を通して自分の中でひとつひとつ確認してきたように思う。その意味で私は、歌と一緒に成長してきたといっても過言ではない。
『蒼い時』 集英社文庫 p.34〜36

私には彼女の抱いた「罪悪感にも似たもの」という表現が印象に残りました。歌詞を目にして衝撃に打ちひしがれてしまった側だというのに、その十四歳の少女が罪悪感を抱いてしまうというのが性的な問題の特徴だと思うからです。

山口百恵は「まごころ」という一言を武器に、私たち世代の女子を代表して世間の大人たちと闘ってくれていたように私は感じています。


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