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繊細チンピラが、思考の歪みを整えてハッピーになるまで。#2-1 〜歪みの原因を探る〜

※このnoteは、繊細チンピラの私が思考を整え、ハッピーなるまでの奮闘記をお届けする連載マガジンです。
ぜひ、これより前のお話もあわせて読んでみてください( ¨̮ )

第一章では、私の中にある「歪み」を探し、包み隠さず書き記してきました。

決してひとことでは表せない複雑な心境が入り乱れ、認知の歪みを形成してきたわけですが、それにはきっかけ・トラウマとなった出来ごとが必ずあるはずです。

なにをそんなに怖がっているのか、なにに怯えてこのような思考を作り上げてしまったのか。

過去の自分と向き合いながら、第二章では「歪みのきっかけ探し」をしていきます。

ただ、「きっかけ」「トラウマ」といっても、私は過去に壮絶なイジメにあったとか、家庭環境が極端に悪かったというわけではありません。
むしろ家族はすごく仲がいいです。

平々凡々の人生を歩んできたはずなのに、なぜこんなにも歪んでしまったのか。
それは、きっと誰しもが経験したことのあるような、とても些細なことのはず。

過去の自分と対話しながら紐解いていきましょう。


ー「いい子にしていないと損」を覚えた幼少期


私の両親は共働きで、幼稚園の年長さんの頃からいわゆる「鍵っ子」でした。

「鍵っ子」といっても、さすがに年長さんがひとりでお留守番をすることはなく、幼稚園が終わってから夕方までは、近所の学童保育に預けられていました。
なにかあったとき用に鍵を持たされていた、そんな感じです。


私は、この学童保育が、嫌いで嫌いで。

幼稚園の終わりの時間が近づくと「学童に行きたくない!!!」と、先生が手に負えないほどに大泣きし、父が会社を早退して迎えにくる……なんて大惨事もあったほどです。


当時、私と仲の良かった友だちに両親が共働きの子はいなくて、幼稚園が終わる頃にはみんなお母さんがお迎えに来ていました。
つまり学童に行っても、私は友だちがいないんです。

遊び相手も話し相手もおらず、ひとりでずーっと絵を描いて過ごす毎日。
たまに職員さんが話しかけてくれたけど、積極的にコミュニケーションを取れる子どもではありませんでした。


私には、2歳年上の兄がいます。

母が働き出したのは私が年長に上がってからだったので、兄は幼稚園を卒園するまでの間はずっと側に母がいました。


大人になった今だからこそ「それがなんだよ」と言えますが、幼い私にはそれがすごくすごく寂して、納得がいかなかったんだと思います。


兄にはお母さんがついていたのに、なんで私ばっかり。

友だちはみんなお母さんと帰っていくのに、なんで私ばっかり。


当時まだ6歳の幼子だった私は、自分の気持ちに気がつけるワケもなく、ただワンワン泣くだけ。
でも、心の奥底には不満・不平等を感じていたのでしょう。

だからといって、「兄ばかりズルい」と両親に不満をぶつけたことはなかったはず。(私の記憶が正しければ、ですが。)
ただ「学童は嫌だ、おうちに帰りたい」と、それだけでした。

なんとなく、両親を責めてはいけない、
「なんでお母さん、一緒にいてくれないの?」とは言ってはいけない気がしたのです。

それは、子どもながらの気遣い……なんて立派なものではなく、いい子にしていないと自分が損をするような、そんな感覚が心の奥底に根付いていたような気がします。

忙しくてあまり側にはいてくれないけれど、両親、そして兄も自分を可愛がってくれている。
きちんと家族の愛情を感じていたからこそ、みんなを責めて「悪い子」になるのは嫌だったのでしょう。


誰に教えられたわけでもないのに「いい子じゃないと損」を自ら覚えてしまった私は、その後も両親が喜びそうな言葉・行動を無意識に選ぶようになったのです。


小学生にあがって、勉強机が必要になったとき。

本当は新品が欲しかったのに、「私はお古でも気にしない」と強がって、母の知り合いのお下がりを使いました。
兄は、新品を買ってもらっていたのに。


高校生くらいのころ、「みきちゃんがブランドものを欲しがる子じゃなくて助かった」と言われたとき。

本当は親のお下がりのブランドバッグとか憧れていたのに、「ブランドもんとか興味ないし」と嘘をつきました。
兄は、父のお下がりのちょっといいジャケットとかもらってたのにな。


そんな寂しさや嘘の積み重ねが、私の異常な承認欲求やアダルトチルドレン的な側面、「こうあるべき!」という頑固な思考を育ててしまったのだと思います。


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