あらゆる競争で勝てなかった自分が、1つだけ掴めたもの
#あの選択をしたから
という応募の企画があったので、ゲームまみれの自分の人生でそういうエピソードがないかを思い出してみる。
筆者はゲーム会社で働いている。
「ゲームクリエイター」なんて言葉は恥ずかしくて歯が浮いてしまうが、いくつものゲームソフトの開発にかかわり、いくつものタイトルを世に出してきた。
売れたものも、まったく売れなかったものもあるが、詳細は今回の話とは関係ないので、今回は割愛する。
ゲームが大好きな(他に何もできない)糞ゲームオタクであった筆者が、ゲーム業界でどうにかこうにか口に糊して行けてること。
これは筆者の人生で、比較的大きなモーメントであるといえる。
そうなる土壌が最初から整っていたとはあまり思えない。
いくつかの選択肢のなかから重要なものを運よく(時に強硬に)選択することができたから、結果的にそうなった。
自分で切り開いた!と言うべきなのか、単に幸運だったのか、はたまた巡りあわせか。
いまとなっては昔過ぎてあんまり覚えてないけど「腹くくって進路決めた時」の一箇所だけは、「自分の選択で人生のルート分岐を変えた」実感が少しある。
小学生
1980年代半ば。
スーパーマリオブラザーズが発売しファミコンブームが爆発。ファミコンのコントローラーのボタンが●型になったころ(初期ロットは■だったんだよ)筆者は小学生になった。
筆者はファミコン少年だった。
ファミコン大好きで、他の事で得意なことはあんまりなかった。
特に運動は苦手で、体はデカくて太かった。足はクソ遅くて、喧嘩も力も強くない子だった。でかいくせに。
これは過去にnoteの記事にも書いたことがあるが、何度も擦ったのでどこの記事だったかよく覚えてないw
↓の記事などに、筆者がいかにテレビゲーム好きだったか? 筆者の人生を肯定するのにテレビゲームが必要であったか?を書いている。
スポーツの成績
かけっこで足が速いかどうか
容姿がシュッとしているか
顔が整っているか
学校の勉強
家が貧しくないか
小学生がさらされる競争社会って、こんな感じだと思う。
これが世界の全てであり、これで勝てる奴が日の光を浴びる。
筆者は日の光を浴びれなかった。まさに陰の者。
上記全部が最下位だったとは思いたくないが、頂点を取れたものはなかったし全体的に低めだったと言わざるを得ない。
そんな自分でもファミコンは上手にできた。
ピーチ姫を助け出すこともできた。
Mr.Xから愛する恋人シルヴィアを救い、熱い抱擁を交わすこともできた。
破壊神シドーを打ち倒し、世界に平和をもたらすこともできた。
ファミコンでは「勝てた」。
世界中の困っていた人々に謝辞をもらいながら凱旋帰国だ(ドラクエ)
架空の世界であることなんざわかっちゃいるが、自分が必要とされ、褒められる場所。
ファミコンは自分にとってそういう場所だった。
子供が何にのめりこむのか? 成功体験・勝利体験ができたコンテンツにハマるんだと思うんだ。
小1くらいの時点で、ほかの何かで成功できて友達全員ぶっちぎって一着で勝利できるようなジャンルがあり、体験ができてたら、筆者はそこまでゲームにハマらなかった、ないし、何年かで卒業していったことだろう。
幸か不幸か、そうはならなかった。
この時点ではどちらかというと不幸だったのかもしれない。
中学生
1990年代前半。制服を着て学校に通うようになった。
筆者は相変わらずファミコン以外に取り柄のない陰の者だった。
このころは視力低下→ゲーム禁止→眼鏡確定を経て、いっそのことと思いPCエンジンに乗り換えていたころで、厳密にはファミコンはそんなにやってなかったけども。
中学になると部活に入らないといけない。
今、中学生の部活動ってどんな感じなんだろう?
1990年代前半の神奈川県横浜市の某公立中学においては…
・参加は強制ではなく任意ですよ。というテイではあった
・部活動頑張ったかは内申書に書く、サボってる糞野郎は内申点に響くぞ
…というようなスタンスであった。
真面目系の生徒さんは、どこかに入るのが当たり前だった。
そこで用意された選択肢を見てみよう。
・野球部
・サッカー部
・バスケ部
・テニス部
・軟式テニス
・柔道部
・剣道部
・それから、それから……いやいや!もういい!もういいって!やめろ!!
全部に興味ねえ。
全部やりたくない。
そう思った。
もうちょっと砕いていうと、
「勝てそうなものが一個もない」
「負けて底辺扱いされて、同級生や、年齢がせいぜい1個だか2個しか違わない程度のクソガキどもにさげすまれて馬鹿にされてお荷物扱いされて我慢しながら3年間過ごす日々しか想像できない」
というのが正直な感想だった。
パソコン部は?
漫画部は?
eスポーツ部jは?
情報処理部は?
なんでないの? ふざけてんの? 激辛料理しか置いてないレストランみたいなもんじゃん? ソフトドリンクが無くて酒だけしかない飲み屋なんて存在する? お前がしてることはそういう行為だぞ? 万人受けのファミレスみたいなお店ですよ^^みたいなツラしてんじゃないよ。そもそも中学は義務教育だから13歳になる人間全員が来るわけだろ? 甘いのが好きなやつもいれば酸っぱいのが好きなやつだっているだろ? コーラだけしか飲めないやつだっていたっておかしくねえだろ?
そういう客のために、コーラを置いとけよ! それを主役にしなくてもいいから、用意くらいはしとけってんだよ。
こういうことを叫ぶ奴は1人もいない時代だった。
いたかもしれないけど握りつぶされてたのかもしれない。
用意された型にハマって当然。選択肢が多いとか少ないとか吠えてるやつは雑魚。できない奴は落ちていくし、それを大人はケアもしないし、周りの奴らは虐める。
そういう時代だった。もう昭和から平成になってはいたけど。
当時はまだバブルが崩壊した直後くらいで、そこまで庶民の暮らしが恐慌状態にはなっておらず、保護者・父母のメンタリティはそれまでの(就職戦線異状なし!とかホザいてた世代の)価値観--すなわち、「お勉強でいい点とって受験でいい大学行って学士になって卒業しさえすれば将来安泰」という考え方--をほとんどの大人が本気で信じており、子供に実践させていた時代だ。
親としては(内申書に影響するなら)何らか部活には入れ、入ったからにはそこで頑張れや。内心・大学・安泰のために我慢しろや。と考えてたはずだ。
結局、やる気が無くてダラダラしていると評判(?)だった卓球部に入るも、顧問が変わってしまって厳しくなってしまい、即ヤメ。
中2から吹奏楽部に入って、学校で貸してもらえる楽器で引退まで活動した。昔ピアノ習ってたから楽譜読めたんで、吹部はそんなにつらくなかった。能動的にバリバリやる感じでもなかったけど。
中学の頃は、自分は何ができ、何をしたいかを全く想像できないまま、用意されたレールがぜんぶ美味しくないことにただただ不満を募らせていた。
公文や塾にも通っていた。行かされてたというべきか。
そこで得た知見を使って将来どうしたい、なんてポジティブなビジョンは一つもなく、ただただ義務感で。厭で厭で仕方なかった。
塾の帰りに閉店前の駄菓子屋のゲーセンでスト2やることだけが楽しみだった。
高校生
1990年代半ば。
結局、兄弟で一番程度の低い高校に進学した。
といっても偏差値50くらいはあったはずなんだよね。
今調べたらほかの兄弟が言ってたとこは65とか62とかあったわw
まあいいけどw
「なんとなく」進学した。
ビジョンはなかった。
家から近かったし。
公立の高校に行けば学資保険が余るからパソコン買ってやる。って父に言われていたし。
パソコン欲しかったので、頑張って公立いいトコロ受験して高望みで落ちる…ということを避けた格好になったわけだ。
イヤなガキだなぁ俺www
この辺の出来事は、過去にこちらの記事にも記載した。
高校で人生の選択肢が!
親からは
「パソコン欲しさに高校のレベル落としたことは、もはや咎めまい。
しかし次はないぞ!(バリバリ勉強して大学いいとこ入りやがれ!)」
というお言葉をいただいた。
ダイを倒すのに失敗したハドラーが、大魔王バーンに叱責されてる場面を思い出してしまうw
筆者は「御意のままに。部活には入らず、高校通いながら代ゼミに通い、いい大学めざします」というような返答をしたような気がする。
そんなにまでしてパソコンで何をしたかったのか?
くわしくは上記記事にあるが「RPGツクール」がやりたかったのだ。
筆者はこれに激ハマりした。
当時16歳の高校生。毎日3回オ〇ニーしても油断すると起つくらいの性欲だったと思うが、エロゲーのできるパソコンを前にして、エロゲーをほとんどプレイせず(まったくプレイしなかったとは言ってない)ゲーム制作に没頭していた。本当だよ?
作れるスキルがどうとか、ツールの知識がどうとか、そういうもの以前に「作る」というマインドそのものがここで造成された。といえる。
昼は学校、夜は寝ずに創作。という日々を過ごした。
あっ、あれ? …勉強は…??
学業のほうはどうだったか…?
RPGはそこそこに、勉強して早稲田大学を目指したのか?と言われると…
筆者は入学式の日に吹奏楽部に入部してしまった。
高校の吹奏楽部は面白い人がたくさんいて(喧嘩も多かったけど)楽しかった。
高校野球の応援とか、吹奏楽コンクールとか、それなりにまっすぐな心で取り組んで、青春を過ごすことができた。
女子多かったはずなのに、モテとは完全に無縁だったけれど。
成績のほうは、得意な科目はまあまあ真ん中くらいだったけど
苦手な科目は、平均40点のところ筆者は10点とか、のび太より多少マシかもしれないが、カツオよりは確実に劣る感じのスコアをたたき出していた。
補習や追試も良く受けた。
もう優等生の振りをするのをやめた。高校の授業を通して、ここさえサボらなければ死なないんだ。という線を学んだといえる。
親に通うように言われた代ゼミのほうは。一応入りはしたが…
・1年の頃は通ってて
・2年の頃は教科書配る日だけ行き(その教科書も読むことは無かったが)
・3年に至っては出席することは無くなった
俺に代ゼミ3年通わせるのに幾らかかったのか知る由もないけど。
部活には行ってた。部活の男友達と高校生クイズ予選とかにも出たりした。
俺は俺の人生を生きる!
そう思うようになってきていた。
やれることはまだないが、やりたいことが見えてきた。
暗闇にいることに変わりはないけど、かすかに道標が見えたかも?
そんな時期だった。
公立高校を高望みして落ち、滑り止めの私立高校に通っていたら…?
その場合、パソコンを手に入れることは無かったはずで、このマインドは造成されなかっただろう。
そして卒業。
筆者は大学へは進学しなかった。
ふたつめの選択である。
魔窟・ゲーム専門学校に行く決断をする。
(親とは超揉めた。親とあんなに揉めたのはこの時が最初で最後かも?)
専門学校
当時(スーパーファミコンが円熟期を迎え、プレステ1とサターンが出てきて、64が出る!FF7が出る!という頃。ゲーセンではバーチャ2とかKOFとか格闘ゲームがすごい流行ってた時期)のゲーム業界は、おぼろげな記憶で適当なことをかくけど、以下のような感じだったような気がする。
・業界全体が今ほどちゃんとしてない(今もしてないか?)
・任天堂以外は1社の例外もなく全部ブラック
・黒くてもヤ〇ザでなければいい会社
・労働者の権利とかライフワークバランスを考える人が来てはいけない世界
・社長が〇クザの会社も少しあった
・ユニティでゲーム作れるし進行管理もできます!みたいな人はそもそも居なかったしそういう人を求めてもいなかった
・吹けば飛ぶような何時潰れるかもわかんない名前も知らない会社に人生預けて飛び込む覚悟が必要。
・入社日から定年まで会社に合宿して死ぬまでゲーム作り続ける覚悟が必要。
・逆に言うとこの2つの覚悟と、どんなに叩いても死なないスタンハンセン級の体力と、疲れてる時でも消えない無限の情熱があれば、入って働くだけならなんとかなった
当時「マルチメディア」という言葉が流行した。
ゲームに限らず、PCなどで触ることのできるインタラクティブなコンテンツのことを「マルチメディア」と呼んだのだ。
たとえば今だと…
・パワーポイントでクリックするとアニメーションするスライドショー
・テレビでdボタンを押した先でできるジャンケンゲーム
・マウスでクリックすることで動物の動画が動く、動物図鑑に付属のDVD
…みたいなものが「マルチメディア」っぽいコンテンツだといえるかなぁ。
なんつうか、曖昧なものだったな。マルチメディア。
パソコンで未来っぽいコンテンツが作れるよ。みたいなのをマルチメディアって呼んでた時代だったのよ。
マルチメディア学べます!を売りにしている専門学校もたくさんあった。
乱立していたといっていい。
筆者はマルチメディアにはあんまり興味がなかった。
専門学校があまたある中で「テレビゲーム専門」のところを選んだ。テレビゲーム専門であることを謳う学校さん、当時はあんまり多くなかったけど何校かはあったよ。
今はもう、よくわからんマルチメディア系の学校は淘汰されて、ちゃんと筋が通ってるトコだけが残った感じがする。
けど当時は有象無象がわんさかいて、選ぶのも結構大変だった(筆者みたいなフラフラしてるやつに有象無象呼ばわりされるのは学校さんとしては遺憾かもですけど)
現状だと、ヨドバシカメラの店名にだけ残ってる感じかな?マルチメディア。ヨドのおかげでギリギリ死語でない感じ。
当時、ゲーム専門学校なんて言ったら、ボンクラ中のボンクラが寄ってくる吹き溜まり・誘蛾灯みたいに言われていた。
もしここで次のステップに進めなかったら、人生どうなる…?
そんな不安が頭をよぎったことは、何度もあった。
でも、他の人生を考えられなかった。
人生でたった2年だけだけど、腹くくって全力で行動し、全身全霊で勉強した。
専門学校での勉強は全部が超楽しかった!
興味がある分野を学ぶ。ということが、こんなにも楽しいことなのか!
ということを、専門学校で授業を受けて、生まれて初めて感じた。
国語数学理科社会英語生物物理化学地理日本史世界史公民、文学部、政経学部、法学部、工学部、物理学部…
全部、ぜんぶ、1個も、すべて。鼻くそほども興味なくて、これを学びたい!と自分から自発的に選ぼうって気持ちに、1ミリもならなかった。
しいて言うなら、就職に有利かどうか?有利なところを受けるか…?みたいな気持ちだけは、鼻くそくらいはあったかもしれないけど、学問そのものに関する興味関心、自分が「したい」かどうか?については、専門に入るより以前、高校までに出会った全部の学問、筆者は全く興味がわかなかった。
なりたい職業もなかった。
全部がつまらなそうだなと思ってた。
実際のところは、つまらんなんてことは無くて。それはぜんぶ
「(自分よりデキる誰かにきっと)勝てない、負ける」と思っていたからなんだろうな。と、今になって思う。
それが専門に入った瞬間、すべての科目の全ての授業が猛烈に面白くて、ぜんぶ極めたい!という気持ちが、心の底から湧いたのを覚えている。
急に0が100になった。
好きなジャンルっていうのは、こんなにも強いものなんだな。
これまで(高校まで)は、学び舎に好きなジャンルが用意されてなかったのだ。
1個も用意されてなかった。
これは誇張でなく、たとえ話や比喩でもなく、まさしく言葉の通り、学ばせてもらえる場所が存在しなかったと思う。
今はどうかな? 大学でゲーム制作を学べるところもあるらしいね。
そんな大学が1995年にあったら、そこを目指して勉強していたかもしれないな。
ちなみに専門で学んだゲーム制作に関する勉強で、他者に「勝てる!」と思っていたワケではなかった。
けど「勝ちたい!」とは思ってた!
高校までと明確に変わった点だ。
ゲーム専門学校はいろんなとこで「魔窟」なんて揶揄されて、実際ボンクラの吹き溜まりとか誘蛾灯だったかもしれないけど、筆者の心の中でだけは、輝いていたし充実した時間であったことは間違いない。
筆者の人生において一番青春していた時期は、ゲーム専門学校時代の2年間であると断言できる。
学年に女子3人しかいなかったけど。
(そしてその誰とも付き合えなかったけど)
そして社会人。就職氷河期だったが…
2年制のところだったので、2年目からは就職活動をしていくこととなる。
大きいところも小さいところも、知ってるところも知らないところも、ぜんぶ受けるくらいの気持ちで取り組んだ。
知らないところはタイトルを買ってプレイして、”知ってる会社”に格上げしたうえで試験に臨んだ。
いっぱい落ちたなぁ。
当時(1998~99)は就職氷河期で、有効求人倍率が0.48だったか。リーマンの時と同じくらいなんだっけ?そんな時期だった。
大手さんの募集にも全部応募したんだけどことごとく落ちてしまい、それでもめげずに、会社が遠かろうと給与が安かろうと構わん、みたいな勢いで就活を繰り返し、どうにか内定をゲットするに至った。
ゲームばっかりやってる単なるゲームオタクは、ゲーム会社で採用されない。そんな話をよく聞く。
そんな話を聞くたびに思うのだけど、ゲームばっかりやってるゲームオタクでも、ゲームの「全てを知る者」くらいになれば、どこかに需要はあってどこかで採用されるんじゃないかな。
筆者は他に何もできなかったけど就職できたし。
あー…楽譜は読めて、楽器はできたな。自分の楽器、持ってなかったけど。
就職した会社は、
小さなオフィスビルの一室に机ぎゅうぎゅうに並べて(その隙間で徹夜仕事明けで寝てる人もいて)PSのソフト作ってるような会社だった。
白いか黒いかで言ったら、確実に黒くて
キツイか楽かで言ったら、確実にキツくて
日にちが変わってタイムカードが出勤と退勤で1段ズレることもあって
社内になぜか寝る場所があって、アウトドア系寝具が充実してるような職場だったけど「黒い」よりも「キツイ」よりも「楽しい」が優先されて、脳から常に何か出っ放しで勤務してたように思う。
それでも、親に勤務先を伝えた時
「どこだよそこ? そこ大丈夫か? (〇クザじゃないよな?)」
という態度をとられたのが懐かしい。
この点において、ここ20年でゲーム業界は有名・健全になったね。
その後。
入社まで丸っきり何ともしようがなかった「彼女を作る」「結婚」とかそのあたりも、勢いでどうにかなってしまい、人生における大きな悔いを(一部、学生服でアレしたいとかそういう欲求を除いて)回収できてしまった。
自分のしたいことを貫き、仕事にできるようになったという成功体験が自信をくれたのかもしれないな。と少し思う。
勉強も運動もダメでいっぱい馬鹿にされたけど。
友達とサッカーするときのチーム決めでリーダー役のサッカー経験者の人気者の男子に「お前はいらない」って言われたけど。
太っていて顔もシュッとしてなくて敗れた恋もたくさんあったけど。
髪が少ないことを指摘されて、抗いようのない悔しさを味わいもしたけど。
制服着てる時期に女子とデートとか、1回もしたことなかったけど。
総合的に見たら、運がよかったのかもしれない。
捨てる神あれば、拾う神あり?
ぱっとしなかった子供時代の自分の「負けルート」を、 #あの選択をしたから 変えることができたんだ。と、思うと感慨深い。
すごいことをやりとげたなんて自覚は無くて、当時も全くうまくいくと思ってなくて、気の向くまま転げまわってただけ、だけど。
全力で転げまわって、よかったと思ってる。
19歳の俺に感謝!
[B] で ぬけます.