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人生のいくつかの可能性を閉ざしてでも遊びたかったPCゲーム

1994年のことだ。

私は高校に入学したときにパソコンを買ってもらった。
パソコン中心の高校生活だった。それについて少し書きたい。

パソコンが欲しかった

中学生の頃の私は、とにかくパソコンが欲しかった。
しかし当時のパソコンはモニターやディスクドライブなどセットで30万円くらいするものだった。
我が家において、誕生日プレゼントとかクリスマスとかにもらえるアイテムの金額を超越していた。
プレゼントでもらえるのは良識的な範囲で1万円まで、特別に高いゲーム機本体とかでも2万くらいが良いとこだった。
(PCエンジンのCD-ROMユニットを、弟と共用のクリスマスプレゼントとしてもらったのがそれまでの最高額だった)

「誕生日のプレゼントに欲しい」が通らないことは分かっていた。
だからそう言うの関係なく、おねだりした。
親に対して、年次のイベント事と関係なくシンプルに「○○が欲しいから買ってくれ」というおねだりをしたのはこれが最初で最後だったのではないかと思う。

父からは「公立高校に入学したら買ってやる」と言われた。

学校のランクは問われなかった。
私の当時の成績は贔屓目にいって中くらいだった。
父は私を炊きつけるようなことはしなかった。学区内の公立で一番頭が良い高校に入学できたら買ってやる!みたいなことは言わない。
「公立の高校だったら、学資保険が余るから」というのが、理由だという。分かり易い。
さすが私の父だ。
父はどちらかというと真面目で厳しい性格だが、デジタル系に抵抗がなく、新しい物が割と好きだったからな?
または、私がゲームソフト以外の物を欲しがって、小遣いや誕生日を無視して無条件でおねだりをするのが珍しかったから、一回くらい聞いてやろうって思ったのかもしれない。


人生の岐路

当時は、公立高校の受験はみんな同じ日に行われていたのと、前期・後期といった仕組みは一切無かったので、1回・1校だけしか受験できなかった。
それを逃したら滑り止めは私立という選択肢だけしかなかった。
(私立は受験日がバラバラだから何個でも好きに受けて良かった)

いうまでも無いが、受験は人生において大切なイベントだ。
中学まで近所の公立校でのほほんと過ごしてきた私にとっては初めての「人生の岐路」だった。
しかも1個しか選ぶことができず、キャンセルや変更もきかない。しくじったらコンティニューもできない。無論、ここでセーブしておくこともできない。

私は、
どうしてもパソコンが欲しかった。
どうしても公立高校に進学する必要があった。

私は迷わず、受験する公立高校のランクを1個下げた。

結果、兄弟の中で私が一番程度の低い高校に行くことになったわけだが。

低いといっても記憶では偏差値50くらいはあったはずで、時代的には、高校で頑張って文系でそれなりの大学いって、大きめの会社の営業のリーマンになれるくらいの選択肢は、まだあったと思う。
まあその後勉強は頑張らなかったし、大学には行かなかったし、大きめの会社にも入らず、営業のリーマンにもならなかったわけだけど…。
でもでも、上場企業に就職して給与や賞与を貰えるようになったのも、結婚したのも、家買ったのも兄弟で私が一番先だったし、結果オーライだよね?

学校周辺に遊ぶ場所が全くなく、横浜のはずなのに学校に隣接する東西南北の建物が全部田んぼ(建物か?)だったことと、物理的に設備としてプールが無く、水泳の授業がなかったこと。女子の水着が見れなかったことは悲しかったなぁ。
設備とか立地こととかあんまり書くと身バレするからこの辺にしとこう。
周辺に店がなく、水着が無くてもいいからパソコンが安定してゲットできることを私は選んだわけだ。

約束したとおり「公立高校への進学」を果たしたのだから、と、パソコンを買ってもらった。

今になって思うけど、自分の子供にコレされたらムカつくよなぁ。
父はよくこんなクソガキ(私)に対して約束を守ってくれたなと思う。
私と子供がもし同じ状況になったならば、守ってやらなければな。と思う。

これによって、人生の可能性・選択肢のようなものが、いくつか閉ざされたり、狭くなったりしたとは思う。

しかしながらここでパソコンを我慢する世界線に進んだとしても真面目に勉強をしていたかどうかはわからないし、パソコンを得たことで開かれた世界線もあったのではないかなと思う。あったと思いたいな。

かくして私は、人生のいくつかの可能性を閉ざして、パソコンを得た。


手に入れたPC

NECの「PC-9821 Cs2」だった。
“98マルチ”と呼ばれていた機種だ。(“キャンビー”という愛称がついたのはこれの次の機種、9821Cbからで、Csは直前の世代だったはず)

当時「マルチメディア」という言葉がちょっぴり流行した。
見るだけの映像でなく、お遊びのゲームでもなく、インタラクティブで、触れる、一方向じゃない双方向なデジタルコンテンツ。
まあ結局それってボタン押したら動画が流れるとか、パワポのアニメ機能みたいなのとか、その程度のもんだったわけだけど。
本とTVだけだった時代から新しい事ができる時代になるよ、って変わろうとしてた頃だった。
そういったものを体験するのに向いてたPCだとおもう。

CPU: i486sx 33MHz
メモリ: 5.6MB
OS: Windows
まだ1994年でWindows95がなかったので、Windows3.1だった。
MS-DOSも搭載されてて、5.0Aとかだったと思う。

HDD: 170MB
ゲームで遊び出したらすぐ足りなくなって増設したっけ。

FDD: 3.5インチのフロッピィディスクドライブを1基搭載。
古めのゲームを遊ぶときに2基必要でNEC純正のを買ったけど高かった…!
当時うちの地元はマクドナルドのバイトが時給650くらいで、男子で900超えるバイトは工事現場とパチンコ屋の店員と郵便局しかなかった。高校生はパチ屋はできなくて、郵便局でバイトして買った!

そしてCD-ROMドライブを搭載していた。まだソフト少なかったけどこれはよかった。
あと特筆するべきなのは86音源(と同等のFM音源)を内蔵していたこと。
拡張用のCバススロットは3個搭載してた。

定価だと全部セットで40万くらいしたはず。いまMacでもそんなしないよね…?
でも当時パソコン安く売る店は割とそこらにあって、Officeとかソフトいっぱいつけて30万円くらいにしてもらって買ったような気がする。
それでも高いな。

98マルチを「器用貧乏」と言う人もいるけど、PCのことをいろいろ知ることができて、ハードの拡張も体験できて、楽しいマシンだった。
使っていくと「足りないな」と思う部分も結構あるんだけど、そのために初めてバイトをしたり、色々と人生の転機をくれた。

もう随分昔に処分してしまったが、愛着のあるPCだ。
愛機だったと言って良い。


人生の可能性を閉ざしてでも、やりたかったこととは?

良い大学にいけたかもしれない。
マスコミや銀行で働けたかもしれない。
そこそこおっさんになるまで勤め上げてるだけで、「俺も一本行ったかぁ」なんて言えるようなイージーな社会人生活を送れたかも知れない。
夏に、女子の水着姿が毎日見れたかもしれない。
私が通ったのは男女ともブレザーの高校だったけど、JKのセーラー服を毎日見れたかもしれない。

そうした人生の可能性を閉ざし、いや、全部を閉ざしたとはいえないけど…狭めてまでなぜ私はパソコンを欲したのか?

エロサイトか?

いや。
当時はインターネットがまだなかった。
厳密にはあったのかな? けど誰もが気軽に利用するようなものではなかった。今みたいに誰もが使うものになったのは2000年くらいからだよね。
ブロードバンドもまだなかった。

では、エロゲーか?

エロゲーの存在については、PCエンジンでドラゴンナイト2とか3とかが発売してたので知ってはいた。16歳だったので未経験だったけど。

しかしこれは半分正解で、半分不正解だ。

エロゲーに限らず、エロいものは無条件で欲しい年齢だった。
パソコンに関わらず、エロ本でもエロビデオでも、なんだって欲しかった。
人生の可能性を閉ざしてでもパソコンでエロゲーがやりたかったのか?と言われると…
「はい」でもあり「いいえ」でもある。

マルチメディアの時代来てたしね。

でも、必要条件ではあるが十分条件ではないというか。


RPGツクール Dante98

私がやりたかったのは、RPGが作れるソフト。
「RPGツクール Dante98」だった。

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書籍にディスクがついている形式で販売されており、本屋さんで買うことができた。
パソコンソフトにしては値段も手ごろで、5000~6000円くらいだった気がする。
中学のときに友達が持っていて、本の部分(説明書になってる)を読ませてもらったんだけど、ものすっごい楽しそうで。
それ以来ずっと夢見ていたソフトだった。

小学生の頃からゲームはいっぱいやってきてて、RPGも結構やってきてた。
当時のRPGに不満なところも結構あって(過去記事参照)、私ならこう作るのに。こうしたらきっと楽しいはず…!といった思いを、日々悶々と募らせていた。

これは私のような者のためにあるソフトだと、当時から感じていた。

98マルチでかなり色々なゲームを遊んだし、中にはエロいものもあったが、稼働時間はこの「RPGツクール」がブッチギリで長かった。
プレイ時間が記録されないのが残念だが、休日予定がなければずっと、平日も毎日夜中まで。みたいな勢いでのめりこんでた。

「RPGツクール」は今では家庭用ゲーム機のソフトにもなっていて、3DSとかSwitchでも出ているので知っている人もいるのではと思う。
プログラミング知識0で、絵が描けなくても、メニュー画面に従って設定をするだけで自分だけのオリジナルRPGが作れる。というシロモノだ。
当時はまだ家庭用ゲーム機版のRPGツクールは存在しなくて(スーパーファミコン版の1作目が出たのが高2の頃だったと思う)、PC-98とMSXでだけ遊ぶことができるものだった。はず。

どうやってRPGを作るのか

ゲームを起動すると全部が海で覆われたフィールド画面が出てくる。
マウスカーソルで絵を描くみたいに、草原や森や砂漠なんかを置いて行くと、マップができる。
主人公キャラクターの名前や強さ等も、文字や数字を打ち込むだけで簡単に作成できる。
画像は老若男女のグラフィックがいっぱい用意されてるので、主人公の画像にしたいものを選ぶだけで良い。
どんな敵が出てくるのか、そいつらのHPがいくつで、どんな攻撃をしてくるのか…とかも、無数に用意された画像や選択肢から選ぶだけで設定できる。
ダンジョンやお城や町、そこに住む人、話しかけたらどんなセリフを言うのか、なども同じノリで簡単に設定できる。

道を塞いでいる盗賊がいて、話しかけたらバトルになり、殺すと先に進める。…といったイベントを作る場合。

1. 盗賊のキャラをマップ上に配置する。

2. 話しかけたとき「メッセージを表示」したあと「バトル」になるよう設定。出てくる敵は「盗賊」

3. 勝った場合、盗賊のグラフィックを消す。

…こんな形にする。でもこれだけだと、また同じ場所を訪れたときに、殺したはずの盗賊がまた出てくる。何度でもよみがえってしまう。

「盗賊はもう死んだので出てこなくなる」というフラグ管理が必要になる。
これには「スイッチ」と呼ばれる機能を使う。

4. 勝ったらスイッチ1番を“ON”にする

という命令を追加しておく。
そしてこの場面の最初に

0. スイッチ1番がOFFのときは発生。ONのときは発生しない。

という条件を置くのだ。
そうすることで、盗賊をまだ倒していないときは盗賊が現れ、盗賊を倒した後(内部的には、スイッチがONになる)は現れなくなる。

スイッチは200個あって、ONとOFFをこちらで好きに設定できるようになってた。

・宝箱を開けて中身を取り出したら、もうその宝箱は空っぽになる
・つり橋を切って通れなくした
・魔法の玉で壁を爆破したので壁に穴が開いて通れるようになった

といった命令を作るのに、スイッチを使う。200個だと足りないんだよね…
何番のスイッチを何に使ったのか?がソフトには記録されないので、ノートなどにメモしておかないといけない。忘れると後が大変。
「自作ゲーム構想用のノート」も用意して、ノートは学校に持って行ってて、思いついたネタとかも常にメモしてたっけ。痛いな。高校生だぞ当時。

できあがるゲームは、まあファミコンのドラクエの機能縮小版(さすがに画像と音はファミコンより良かったけど)という感じだったんだけど、本当に面白かった。
RPGツクールは、他のゲーム作成ツールと比べると機能が少なかった。(その分、操作は簡単だったけど)
これまでFF4や天外2、DQ5なんかを見てきていたので、あれらを基準としたら「もうちょっとこうできたらいいのにな」と思える要素がちょっと目立つ感じだった。
でも各種設定画面に備わった機能を色々と使い倒していくと、裏技やテクニックがあることに気付いていく。
通常、バトル中のBGMは1個しかなくて、誰と戦うときも決まったバトルBGMが流れるのだけど、ある順番で命令を記載するとバトルのBGMを変更できるとか。
いろんなことを試して、見つけたものはどんどん自作ゲームに実装した。
しゃぶり尽くす勢いで遊んでたと思う。

自分の造る世界が少しずついいものになっていくのが楽しかった。

画像を自分で描いて差し替えることができる「キャラクターツクール」や、BGMを自作して差し替えることができる「音楽ツクール」も追加で購入した。
画像の差し替えは、私自身の画力の問題であまり活用できなかったが、曲の差し替えはかなり使った。


で、どんなの作ったの?

高校3年間で、1本だけRPGを完成させることができた。
当時のデータがもう残っていなくて、世の中から消滅してしまっているのが残念なんだけど。
思い出すとだいたい以下のような感じ。

・フィールドマップが1画面しかない
・そこは南の島で、ハメハメハ大王的な、みんな魚とって暮らしてるような平和な王国。
・主人公は王様に使える騎士。サムライのグラフィックで名前は「春雨」。
・ある晩、お城に盗賊が侵入。春雨たち騎士が総出でこれを撃退。盗賊たちの一部を殺すが、数名逃がしてしまう。
・翌朝、お姫さまがいなくなっていることが判明する
・探しに行かないといけないが、また盗賊の残党が来るかもしれないので全員では探せない
・自分以外に1名、騎士団の仲間を選んで姫を探す
・春雨のライバルの聖騎士、昨夜門番をしていた衛兵、占い師の女、春雨の妹で密偵(忍者)をしている「霧雨」の4人の中から使えそうな者を選んで(話しかけて)仲間にする。1人を仲間にすると他の人は仲間にできない。
・フィールドが1画面なのであんまり建物とかもなくて、買い物ができる町が1つと、ダンジョン3つ。エルフの森と、盗賊の洞窟と、魔女の塔だったかな。
・あとラストダンジョンとして、城の地下があった。
・2人パーティで、主人公の春雨は脳筋。それを仲間がどう補うか?がメインとなる。
・聖騎士は回復魔法も使えて強くて優秀で頼もしいんだけど春雨とは仲が悪い。あと装備がめっちゃ高いのと女性が苦手で敵が女性のとき戦いから離脱したり不安定な行動を取る。カブキ団十郎みたいな感じにしたかった。
・衛兵は弱いんだけど防御系の魔法(盾でかばうイメージ)が使えて、春雨を守れる。町で顔がきいて(会話内容が変化)宿がタダになるとかのメリットがあった。
・忍者をつれているとダンジョンのトラップとかを事前に教えてくれて回避できる。強さはまあまあ。
・占い師を連れているとどういう順番で進んだらいいかを占いで教えてくれる。魔法は強力でザコ戦では心強いが酷く打たれ弱い
・ダンジョンを1個クリアするたびにゲーム内で1日が経過。
・仲間に誰を連れているか?と、何日目なのか?で、村人のセリフを可能な限り変えた。村人1人につきセリフ変更は4つしか持てないのだけど、「1日目の町と2日目の町を、同じ町だけど別のデータ(完全に同じグラだけど別の場所にそっくりなものを複数個作る形)にする」ことで村人のセリフパターンをふやすことができた。
・姫が誰かにさらわれた方向で調査し見つからず。ダンジョンを3つクリアすると4日目に城の地下への入口が開く。
・地下で姫を見つける。大臣がドラゴンを召喚しており姫が逃げている。国家転覆を目論む大臣の仕業か?これがラスボス。倒すとエピローグへ。
・姫は日々があまりにも暇なので、家出をしたがっていた。城の地下に船着場があり、緊急時用の船があるのだがそれで国外へ脱出しようとしてた。
・大臣がドラゴンを召喚したのは姫を止める(船を破壊する)ためだった
・盗賊が盗みに入って警備がいなくなったのでチャンスと思って脱出したのだった
・王様におしおきを受けてめでたしめでたし
・聖騎士をパーティにいれてた場合は、船で外の世界に連れてってやるよエンドになる

…みたいな内容だったと思う。

最初は、ドラクエ1的な感じで勇者と魔王が戦うところから始まるんだけど、相打ちで2人とも死んで、城の地下牢に閉じ込められてた姫が崩壊のはじまった魔王城から一人で脱出する。ってゲームを考えたんだけど、同じようなものがどうやら既に市販されてると聞いて、上記みたいなのに落ち着いた。

私が初めて作ったゲームソフトということになる。

当時インターネットがまだ一般に普及してなかったので、作品をネットに公開とかはしなかった。
このゲームをプレイしたのは(私と同じようにPC-98を持っていた)クラスメイトのM君だけ。

漫画「ハイスコアガール」に、スーファミのRPGツクールでゲームを作ってヒロインの女の子に遊んでもらう場面があったけど。
あそこから恋愛とかヒロインとか甘酸っぱい要素を全部削除したみたいな感じだった。

進学してパソコンを買い替えた時に、新しいマシンをPC-98でなくDOS/V機にしてしまったため、当時持っていたデータは全て破棄してしまった。
当時のRPGツクールはWindows用のソフトじゃなくて、PC-98のMS-DOS用ソフトだったので、他社のパソコンにしちゃうと動かせなかったんだよね。
今考えると、動かせるパソコンを手放したとしても、ゲームは記念に取っておけばよかったな。
今ならディスクをイメージ化して、エミュレータで動かすことも出来たのに。

いつかあのゲームを復活させたい…とは全く思わないけど、RPGを作るっていう行為は機会があったらまたやってみたいな。

[B] で ぬけます.