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作り上げられた自己イメージからの脱却

自分がしているのか?それとも、させられているのか?

自分が考えているのか?それとも考えさせられているのか?

自分の思いなのか?それとも他人の思いなのか?

自分の意思なのか?それとも他人の意思なのか?

これは、私なのか?それとも他人なのか?

こんな簡単な事が、たまにわからなくなる。

どんどんどんどん自分を突き詰めていくと、一体自分とは何なのか?すらわからなくなる。

これが自分だと思っていても、それは自分が自分をこういう人間だと定義しているに過ぎない。だとしたら、本当の私とは一体何なのだろうか?

自分で自分をこういうものだと定義している事も在れば、他人に、つまりは、自分の周りにいる人間に自分てものを形作られている事もある。自分の持つ自己イメージや、他人が自分に向けて持つ自己イメージ。それに私たちは捕らわれ、その自分や他人にイメージ化された自分をよくよく気づいてみれば生きているという事になる。

そんな自分や他人が自分に対して作り上げた自己イメージからは、何としても脱却したい。でなければ、私たちはずっとこの自分や他人が自分に対して作り上げたイメージの奴隷となってしまう。

人はイメージで他人を見る。だから、自分が相手に対してもつイメージと、その本人との間に、あまりの齟齬があると、人はその人に対してあまりいい印象を持つ事がない。

イメージ通りであれば、それでいいが、そのイメージ通りでなければ、その姿に私たちは幻滅する。

こうした事を考えていくと、私たちというのは、常にこのイメージというものに、自分自身縛られて生きているという事になるそんな気がする。

他人が自分に持つイメージ。それを私たちは他人の為に、もちろん自分の為に必死に維持して生きている。

他人が自分に持つそのイメージを壊してしまったら・・・、そう考えると私たちは怖くなり、必死に自分の自己イメージを保とうとする。

本当はどんな姿だって、どんな在り方だっていいはず。でも、ここまで多くの人が自己イメージの維持にこだわるという事は、その背後には、何か大きな理由がある気がする。

私たちは、他人が自分に対して持つその自己イメージを保つ事により、他人から嫌われない様に、必死に自分を防衛しているのかも知れない。受け入れられる自分の形を作って、その形で生きようとする。その形のままで多少生きづらくなったとしても、私たちは、嫌われるのが恐ろしくて、その自己イメージを変えない。その自己イメージにしがみつく。

でも、その必死になってしがみついているその自己イメージから脱却する事が出来ない、自由になることが出来ないからこそ、苦しくなってしまっている人も少なくない。

自分の自己イメージを守ることというのは、そんなに大切な事なんだろうか?あなたは、こういう人だと思っていたのに、実は全然違った。そう他人に言われて相手の期待を私たちは裏切ってしまうという事に何処か強い怖れの様なものを感じているんじゃないだろうか?

相手に受け入れてもらう為に、自己イメージを必死に維持しようとしていると、いつか必ず、その自分で保っているその自己イメージに自分が苦しめられる日が来る。だから、私たちは脱却しないといけない。自分とはこういうものだという固定化された自己イメージから・・・。


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