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生きる

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ー破壊そして再生へー
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#コラム

ティ―ル(進化型)と肉体に囚われた魂

これは、ティール組織という本の中に出てくる一文です。 自分が埋没している世界、環境から自己を切り離すとは?わたしたちは皆、自分の世界の中に生きている存在です。何を決めるにも、判断するにも、その全ては、この自分の肉体を通した感覚世界によって決定されています。 自分が何かに触れたり、感じたり、頭を使って考えたり、全て、私たちはこの自分の肉体を通して外の世界にあるものを知覚しているという事になります。 つまり、この肉体というものが存在しなければ、私たちは何も認識することも、知

未来を予見し、今を構築する力を。

これからは、しっかりと色々な事を考えて行動しないと、生きていけなくなる。適当に、その場限りの誤魔化しで生きていけたのはこれまでの時代。これからは、何も誤魔化す事は出来ない。嘘をつく事も、隠し事をする事も、自分を偽る事も出来ない。他人を欺く事も、自分に嘘をつく事もその全てが罪になる。そんな時代が来る。 全くのクリアーな人間しかこれからは、生きていけない。今の内に自分の心の中にあるものを全てさらけだし、その全てとしっかりと対峙し、それなりに自分の持っている問題を解消しておかない

色をもっと効果的に使おう!

もっと生活に色々な色を取り込めばいいのに、意外に皆色々な色を取り入れずに、なんとなく無難な色でまとめてしまっている。皆が着ている洋服も、外に出れば、田舎なんて特に、黒やグレーばかり着ている人だらけだったりする。色は効果的に使えば、沢山いい事があるのだけれど、その色の効果を知らない人は、何故だか意外に生活そのものに色を取り入れずに、なんとなく無難な色でまとめてしまう。これってすごくもったいない。 人間というのは、自分の目にする色というものから多くの刺激を受けていたりする。色を

混沌は傲慢を生み、秩序は謙虚さを生む

私たち人間というのは皆、自分というものを過信していると最近思う。コロナの事もあるけれど、私たちは自分で自分の事をコントロールする事が出来るというそう言った強い思い込みみたいなものを持っている。 私たちは意外にも、自分で自分をコントロールする事など出来ていない。自分を制御する事が出来ているとそう思うのは、単なる幻想でしかない。実際問題、このコロナ禍にあっても自分の中にある誘惑に負けてしまうという人がわんさかいる。 自分でそれなりに感染対策していれば、それで大丈夫だ!なんてこ

外部との比較、区別によってもたらされる曖昧な定義。

人間ってのは皆、自分てものをこういうものだとそれぞれに定義している。他のものと区別して、自分というものはこういものだ!と定義している。この自分をこういうものだと他と区別し、そして定義させているその全てがもし何もなかったら、私たちは一体どうやって自分というものを定義するんだろう? 私たち人間というのは、自分の外にある何かと自分を比較して、自分というものをこういうものだと定義する。つまり、自分の外に何か自分と比較するものがあるからこそ、そのものと自分を比較して、自分とはこういう

死はキラキラと光っていつでも私たちを魅了する。

私たちは、毎日何かに追われている。毎日、毎日必死になって前に進んでいかなければ、後ろから大きな口をあけた社会という魔物が追いかけてくる。少しでも休んでいたら、その後ろから追いかけてくるその魔物に足を食われる。 私たちは自分ってものを失いたくなくて、必死にこの魔物から逃げる。 私たち人間というのは、この自分の後ろから追いかけてくる魔物から逃げる事しか出来ないのだろうか? 何故、毎日自分を追いかけてくる魔物と私たちは、対峙しようとしないのだろう?私たちは、ただ毎日息を切らし

類は友を呼んだ。

先日、街で一人のじいさんと出会った。野菜を買おうとしてうろうろしている所に声をかけられた。そのじいさんとなんだか意気投合してしまって、一緒にランチをする事になった。 どんな些細な出会いでも、その出会いは必然だ!とよく言う。大切なのは、その偶然の出会い、ちょっとした出会いの中に何を見つける事が出来るのかだと。 私は人と会う時に、その人がどんな人であっても、その人との間に自分との接点を探す。自分と出会う人が皆、偶然ではなく必然だ!とそう言うのなら、自分の目の前にいる人間は自分

私たちには、力がある。(依存ではなく創造へ)。

もっとい色々な事を自分の頭で考えよう。私たちは、毎日考えるという事を少しずつ奪われている。何も考えなくてもいい様に、この社会はどんどんどんどん便利になっている。 私たちは、何も考えなくていいように日々され続けている。何かに注目させたり、新しいものを開発し、それに夢中にさせておけば、人間というのは、他の事を考える事はない。 私たちはいつも何かに関心を向ける様に仕向けられている。どうでもいい事に私たちの意識が上手く捕らわれる様に、この世界は作られている。 今のこの世界を見て

私たちは人生そのものが何たるかをこの口で語りながら、その人生が何たるかを知らない。

人生って、そんなに簡単な言葉では表現できない。私たちは一生懸命この人生ってやつを、綺麗な言葉を並び立てて、表現しようとするけれど、その私たちが様々なものを使って表そうとしているその人生とは、そもそも、私たちのもつ力では表現など出来ないものだったりするんじゃないだろうか? 自分の人生、それを自分の表現によってあらわす事が出来るなんてのは、人間の傲りだったっりするのかもしれない。自分の人生を、私たちは自分の持っている力で表現できるとそう思っているかも知れないが、実はこれが誤りだ

私たちは思考しているのではなく、ただ目の前の現象に反応しているだけ

私たちは、毎日何かを一生懸命考えている様に思えるが、でも、実際には意外に何も考えていなかったりする。 考えたり、思考した気になっているだけで、意外に私たちは何も考えていない。考えた、思考したってことに満足して、ただその行為している自分に満足しているだけで、頭の中は特に何も考えてはいない。 私たちは、ただ毎日自分の目の前に起こる色々なものから刺激を受け、ただそれに反応しているだけ。私たちはただ反応しているだけで、思考している訳ではない。 ある対象に対して、反応を起こしてい

私たちは、不安があるから壊れる。恐怖があるから壊れる。

毎日毎日、沢山の恐怖が私たちの生活に迫ってくる。その恐怖が、分断を生み、この世界はバラバラになってきているんじゃないだろうか? 私たちの生活とは、常に恐怖と隣合わせ。この恐怖が、この世界を分断させてきた事は間違いない。 個人の心にある不安や、恐怖心。これが、この世界を今ものすごい勢いで引き裂いている。どの人の心にも、不安や、恐怖というものはある。これをそれぞれの人が、自分で克服する事が出来なければ、この世界は更に拍車をかけて引き裂かれて行くのだろう。 私たちは、怖いから

食っても食っても腹にたまらない幸福感

私たちは、毎日幸福という奴を貪り食っている。この幸福を貪り食うために、毎日必死に働いている。 幸福感、それが欲しいから、私たちは毎日汗水たらして働く。そしてその働いた報酬としてお金をもらい、そのお金で幸福感というものを買って自分を満たしたつもりになっている。 どれだけ働いても、私たちは、この腹が一杯にならない。沢山働いて、多くのお金を手にして、そのお金を持って、幸福感ってやつを多量に食らう。でも、どれだけ、その幸福感というものを食べても、すぐに又その幸福感ってやつをこの腹

人間として生きるという最も純粋な行為とは、あらゆる拘束から解き放たれた先にあるもの。

この身をかみ砕くほどに強烈な体験。それを、私たちは求めているのかも知れない。そう言った強烈な体験がなければ、本当の意味での生など感じられない。 ぼんやりとしたこの世界では、私たちは何も捉えられない。可もなく不可もないこの世界で、いったいどうやって私たちは生きるという人間として最も激しい体験を得る事が出来るのだろうか? 人間である為には、もっともっと激しい体験が必要なのかもしれない。何もかもが緩くなり、平板化してしまったこの世界では、人間として生きるという醍醐味みたいなもの

綺麗に整っていないからこそ、人間は美しいんじゃないだろうか?

皆、同じものを見て、同じように反応する。何もかも皆、右に倣えで一緒。 誰かと少しでも違った反応を起こすと、この社会は、何故か、その皆と違った反応を起こす人を排除する。 こうした事に、私たちは何も疑問を抱かない。何でもかんでも皆一緒にしようとしている。私たちはおかしな生き物。でも、その事に気づかない。 学校教育は、何でもかんでも、皆同じにしようとする。他人と違う子は、学校では歓迎されない。いかに全体に馴染みよく生きられるか?これが学校教育での一つの指針となる。 何でもか