マガジンのカバー画像

生きる

90
ー破壊そして再生へー
運営しているクリエイター

#哲学

<終末の人間>とはわたしたちのことなのかもしれない

ニーチェのこの言葉を知っていますか? この言葉にはじめて触れた時、何とも言葉にしがたいものをニーチェにつきつけられたそんな気がした。 今の時代は、まさに虫けら同然の人間ばかりになってしまっているのかもしれない。ぬくぬくとした場所に逃げ込みというのは、自分を誰も否定しない、言ってみれば、自分ワールドの事。この自分ワールドの中で暮らしていれば、誰とも接触することはなく、ただ自分だけが幸せでいられる。 ニーチェは、この自分ワールドの中に自分に都合の良い人間を引き入れて、そのも

日本人という種(形なきものの形を見、声なきものの声を聞く)西田幾多郎

この言葉は今この現代を生きるわたしたちにとってとても重要な言葉であると私は考えています。 わたしたちは日本人でありながら、その思想は今や西洋の思想「有」の思想にどっぷりと浸かってしまっています。 西田幾多郎が言うように、東洋文化の根底には、「無」の考え方が潜んでいた。東洋文化には「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く」といった「無」を求める要求がある。 でも今現代を生きるわたしたちには、もはやこの西田のいう「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く」という事が出来な

きちんとするってなんだ?

ニ、三日前から、千葉雅也さんの現代思想入門という本を読みだした。 この本の冒頭に「現代ではきちんとする方向へと、色々な改革が進んでいて、それにより、生活がより窮屈になっている」という文言がありました。 きちんとする、ちゃんとしなければらなない。逸脱を取り締まって、ルール通りにキレイに社会が動くようにしたい。 これはまさに千葉さんのおっしゃる通りで、わたしたちはいつからか、綺麗なものこそが一番素晴らしいものだという幻想にとらわれるようになってしまったと私自身も強く感じると

私から、私ならざるものへの移行

何もかもが解体されて、私たちはどんどん無気力になっていく。この流れは、これから益々加速する。 私たちは大切なものからどんどんとその身を引き離されて、解体されて行く。大切なものとの繋がりが段々と失われて行く。かつて自分と共にあったそのありとあらゆるものが、自分から切り離されていく。そしてそれらは徐々に自分から遠ざかっていく。そうしたものが自分の元から遠ざかれば遠ざかるほどに、私たちは、自分を失う。 今この時代はものすごいスピードで私というものを解体しようとしている。私という

外部との比較、区別によってもたらされる曖昧な定義。

人間ってのは皆、自分てものをこういうものだとそれぞれに定義している。他のものと区別して、自分というものはこういものだ!と定義している。この自分をこういうものだと他と区別し、そして定義させているその全てがもし何もなかったら、私たちは一体どうやって自分というものを定義するんだろう? 私たち人間というのは、自分の外にある何かと自分を比較して、自分というものをこういうものだと定義する。つまり、自分の外に何か自分と比較するものがあるからこそ、そのものと自分を比較して、自分とはこういう

私たちには、力がある。(依存ではなく創造へ)。

もっとい色々な事を自分の頭で考えよう。私たちは、毎日考えるという事を少しずつ奪われている。何も考えなくてもいい様に、この社会はどんどんどんどん便利になっている。 私たちは、何も考えなくていいように日々され続けている。何かに注目させたり、新しいものを開発し、それに夢中にさせておけば、人間というのは、他の事を考える事はない。 私たちはいつも何かに関心を向ける様に仕向けられている。どうでもいい事に私たちの意識が上手く捕らわれる様に、この世界は作られている。 今のこの世界を見て

私たちは人生そのものが何たるかをこの口で語りながら、その人生が何たるかを知らない。

人生って、そんなに簡単な言葉では表現できない。私たちは一生懸命この人生ってやつを、綺麗な言葉を並び立てて、表現しようとするけれど、その私たちが様々なものを使って表そうとしているその人生とは、そもそも、私たちのもつ力では表現など出来ないものだったりするんじゃないだろうか? 自分の人生、それを自分の表現によってあらわす事が出来るなんてのは、人間の傲りだったっりするのかもしれない。自分の人生を、私たちは自分の持っている力で表現できるとそう思っているかも知れないが、実はこれが誤りだ

私たちは死ぬために生きている

人間ってのは、とても不思議なもので、死に向かって私たちは毎日を生きている。エントロピーが増大するにつれて、私たちの中に内在する光はその強度を弱めていく。 生きるっていうのは、この心の中に灯った光がある時だとすると、私たちは、毎日少しずつこの自分の中にある光を失っている訳だから、生きながらにして、私たちは死に向かっているという事になる。 私たち人間は、毎日少しずつ自分ってものを失っていく。柔軟だった自分もどんどんと硬化してその中にあるべきはずのエネルギーは、自分でも気づかぬ

食っても食っても腹にたまらない幸福感

私たちは、毎日幸福という奴を貪り食っている。この幸福を貪り食うために、毎日必死に働いている。 幸福感、それが欲しいから、私たちは毎日汗水たらして働く。そしてその働いた報酬としてお金をもらい、そのお金で幸福感というものを買って自分を満たしたつもりになっている。 どれだけ働いても、私たちは、この腹が一杯にならない。沢山働いて、多くのお金を手にして、そのお金を持って、幸福感ってやつを多量に食らう。でも、どれだけ、その幸福感というものを食べても、すぐに又その幸福感ってやつをこの腹

人間として生きるという最も純粋な行為とは、あらゆる拘束から解き放たれた先にあるもの。

この身をかみ砕くほどに強烈な体験。それを、私たちは求めているのかも知れない。そう言った強烈な体験がなければ、本当の意味での生など感じられない。 ぼんやりとしたこの世界では、私たちは何も捉えられない。可もなく不可もないこの世界で、いったいどうやって私たちは生きるという人間として最も激しい体験を得る事が出来るのだろうか? 人間である為には、もっともっと激しい体験が必要なのかもしれない。何もかもが緩くなり、平板化してしまったこの世界では、人間として生きるという醍醐味みたいなもの

綺麗に整っていないからこそ、人間は美しいんじゃないだろうか?

皆、同じものを見て、同じように反応する。何もかも皆、右に倣えで一緒。 誰かと少しでも違った反応を起こすと、この社会は、何故か、その皆と違った反応を起こす人を排除する。 こうした事に、私たちは何も疑問を抱かない。何でもかんでも皆一緒にしようとしている。私たちはおかしな生き物。でも、その事に気づかない。 学校教育は、何でもかんでも、皆同じにしようとする。他人と違う子は、学校では歓迎されない。いかに全体に馴染みよく生きられるか?これが学校教育での一つの指針となる。 何でもか

何かを必要としている時点で私たちは、本来の自分から遠ざかっているのかも知れない。

物も、事も、人間も、自然も何でもそうだが、何もしなければ、そこに在るエントロピーは増大していく。何も手を付けなければ、そこに在るものごとは皆全て、乱雑な状態になっていく。 力をかけ続ける。常に意識をし続ける事でしか、このエントロピーの増大を防ぐことは出来ない。 何事にも、力をかけずに、意識をかけずにいれば、私たちは皆、どんどんと複雑化していき、その姿は乱雑なものになり、自分でも、その自分がわからなくなる。それほどに、私たちは複雑化する。 自分というものに、常に意識を向け

エネルギー消費を嫌がるエコ人間

自分の守るべき所は守って、他を尊重する生き方をと鈴木大拙は言う。 今の私たちは、自分の守るべき所だけを守って、他は尊重しない生き方、これをしている様に思う。 いつの時代もそうなのだが、私たち人間の考え方というものは、本当にバランスが悪い。私たちは中庸、そのものの真ん中で考えるという事がなかなか出来ない。いつも、右か左、どちらかに傾きすぎる所がある。 相手を尊重してと言えば、私たちは、その相手を尊重しすぎてしまい、逆に自分を主張しろ!と言えば、それを私たちは他に押し付けて

操作された自由意思

私たちは、この世界で何もかも自分の意思で行動していると、そう思っている。でも、これは意外に間違いだったりする。 私たち人間は、自分の意思でなど行動していない。昨日も書いたけれど、私たち人間は皆、操作されている。 この世界には、たくさんの情報が溢れているけれど、その情報を私たちは自分たちの意思で選択し、そして見ているとそう思っているかも知れないけれど、これも意外に違ったりする。 私たちは、自分で~しているのではなくて、他者に~させられている存在にすぎない。自分で見ているそ