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生きる

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ー破壊そして再生へー
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#心

求めずともそこにある

皆さんは、この言葉を知っていますか? これは臨済宗の高僧である白隠禅師の言葉です。 これは、まさに今現代の私たちの事を言っているかのように私には感じます。 私たちは、自分の足下を見ずに、遠くに視点を移して、その遠くに何かがあることをいつも期待して生きている。 しっかりと自分の足下を見れば、そこには必要なものはある。 でも、それに気づく事はなかなか難しい。 私たちの求めるものは、何故か自分から遠く離れたところにあると、そう言った幻想を私たちはもっています。 なので

日々を丁寧に生きることの大切さを学んだ

ふと気がついた。 自分がいつからか、自分の人生を丁寧に生きる事をやめてしまっていたこと。 別にいいやといって、いろいろな事が適当になって、それが徐々にたまっていって、恐ろしいことに、すべてが自分にとっての当たり前だと思うようになっていたこと。 何もかも、当たり前で生きていた。 だから、感謝なんてしたことない。 すべてが当たり前のように手に入るこの世界の中にいて、わたしは人間として一番大切なものを失ってしまっていた気がする。 それは、感謝だ。 自分に与えられている

私から、私ならざるものへの移行

何もかもが解体されて、私たちはどんどん無気力になっていく。この流れは、これから益々加速する。 私たちは大切なものからどんどんとその身を引き離されて、解体されて行く。大切なものとの繋がりが段々と失われて行く。かつて自分と共にあったそのありとあらゆるものが、自分から切り離されていく。そしてそれらは徐々に自分から遠ざかっていく。そうしたものが自分の元から遠ざかれば遠ざかるほどに、私たちは、自分を失う。 今この時代はものすごいスピードで私というものを解体しようとしている。私という

色をもっと効果的に使おう!

もっと生活に色々な色を取り込めばいいのに、意外に皆色々な色を取り入れずに、なんとなく無難な色でまとめてしまっている。皆が着ている洋服も、外に出れば、田舎なんて特に、黒やグレーばかり着ている人だらけだったりする。色は効果的に使えば、沢山いい事があるのだけれど、その色の効果を知らない人は、何故だか意外に生活そのものに色を取り入れずに、なんとなく無難な色でまとめてしまう。これってすごくもったいない。 人間というのは、自分の目にする色というものから多くの刺激を受けていたりする。色を

私たちは人生そのものが何たるかをこの口で語りながら、その人生が何たるかを知らない。

人生って、そんなに簡単な言葉では表現できない。私たちは一生懸命この人生ってやつを、綺麗な言葉を並び立てて、表現しようとするけれど、その私たちが様々なものを使って表そうとしているその人生とは、そもそも、私たちのもつ力では表現など出来ないものだったりするんじゃないだろうか? 自分の人生、それを自分の表現によってあらわす事が出来るなんてのは、人間の傲りだったっりするのかもしれない。自分の人生を、私たちは自分の持っている力で表現できるとそう思っているかも知れないが、実はこれが誤りだ

私たちは、不安があるから壊れる。恐怖があるから壊れる。

毎日毎日、沢山の恐怖が私たちの生活に迫ってくる。その恐怖が、分断を生み、この世界はバラバラになってきているんじゃないだろうか? 私たちの生活とは、常に恐怖と隣合わせ。この恐怖が、この世界を分断させてきた事は間違いない。 個人の心にある不安や、恐怖心。これが、この世界を今ものすごい勢いで引き裂いている。どの人の心にも、不安や、恐怖というものはある。これをそれぞれの人が、自分で克服する事が出来なければ、この世界は更に拍車をかけて引き裂かれて行くのだろう。 私たちは、怖いから

エネルギー消費を嫌がるエコ人間

自分の守るべき所は守って、他を尊重する生き方をと鈴木大拙は言う。 今の私たちは、自分の守るべき所だけを守って、他は尊重しない生き方、これをしている様に思う。 いつの時代もそうなのだが、私たち人間の考え方というものは、本当にバランスが悪い。私たちは中庸、そのものの真ん中で考えるという事がなかなか出来ない。いつも、右か左、どちらかに傾きすぎる所がある。 相手を尊重してと言えば、私たちは、その相手を尊重しすぎてしまい、逆に自分を主張しろ!と言えば、それを私たちは他に押し付けて

ナルシシズムによる自己確立

私たちは、今自分の目の前にある世界が全てだと思って生きているところがある。木を見て森を見ない生き方だ。もっと言えば、私たちは木すら見ていないのかもしれない。私たちが見ているのは、木に茂っている多くの葉っぱの一枚。その一枚しかもしかしたら見ていないのかもしれない。 私たちが全てだと思ってみている世界は、木に茂った葉の一枚。そんな小さな世界を私たちは意外に全てだと思って生きていたりする。だから、苦しくなって、辛くなって、何処にも人生の逃げ道がない気がして辛くなる。 人間という

私たち人間は感情の奴隷

私たち人間は、自分の取る行動の本当の意味を知らない。ただ何となくそうしたいから、そうしているだけであり、何故、自分がこういった行動を取るのか?その本当の理由は何も知らない。 私たち人間というのは、自分の意思を持って自分のありとあらゆる行動を決めている様に思えるけれど、でも実際は、そこに自分の意思など殆ど反映されてはいない。私たちは、自分で自分の取る行動を意識的に決めているのではなく、自分の中にある感情というものによって、自分の取る行動を決められている。つまり、私たちの行動の

いついかなる時でも自分を問う

私たち人間というのは、しっかりと色々な事を意識して生きていないと、この心というか、精神はすぐにバラバラに砕けていく。自分を一つの塊として維持していくには、その1つの塊である自分を常に意識し続ける事が必要になる。 何もせずにただこの流れる時間にその身を委ねて生きて行けば、自分というものは維持する事が難しい。エントロピーの法則ではないが、私たち人間というのは、常に自分に意識を向け続けなければ、この私というものは、簡単に複雑化し、乱雑になる。 自分の部屋も、常に自分で綺麗にしよ

人格変容を伴う癒しという強烈な体験

私たち人間は日々、癒されたいと思っている。自分の中にある苦しみや、悲しみを和らげたいと思っている。だから、色々な所へ出かけて行ったり、色々な人と出会ったりして、そこで私たちは自分の心を癒そうとしている。 私たち人間というのは、自分の中にある苦しみや、悲しみ、これを完全に断とうとはしない。ほんの少しでも、癒されれば、自分の中にあるものが緩和されればそれでいいくらいにしか思っていない。 だから、一時的な癒しを求めてあちこちをさまよう。そして、一時的な満足で自分が癒されたとそう

社会的タブー

いい大学に入って、いい会社に入って、良いパートナーと出会って、結婚して、子供を産んで、子育てをして、我が子を立派に育て上げて、その我が子が、孫を生んで自分は年寄りになって、皆に見守られながら最後を遂げる。 こうした形というかスタイルは一体誰が作ったんだろう?こうした生き方こそが、人間として最良の在り方だとそう提唱した人は誰なんだろう?もっといえば、こうした日本人共通というか、世界共通の意識を作ったのは誰なんだろう? 良きパートナーに出会って、そのパートナーとの間に子供をも

表現という名の自己解放

自分の中から出てこようとするものを、この社会は出すなっていう。 余計なものを出すな。余計なものを書くな。表現するなって。 人に受けのいいものを、人に評価されるものを。そんな風に教育されて生きてきたけど、それじゃあ自分の中にあるものが私の中から出てこれない。 私の中にあるものは外に出たがってる。この私の中にあるものは、私が表現する事で、その表現に乗って私の外に出る。 彼らは私なしでは、この世界に出てこれない。 私は表現する事で、私の中に閉じ込められているものを外の世界

過ぎたるは及ばざるが如し

自分の中に恐れの感情を持っている事はとても大切な事。 でも、この恐れの感情を強く持ちすぎていると、私たちは悪に転じてしまう。逆にこの恐れの感情を持たなすぎても、私たちは悪に転じてしまう。 ありすぎることは、悪であって、又、なさすぎるのも又悪になる。 人間として機能するには、この両端をバランスよく自分の中で維持しないといけない。 義務感。これも持ちすぎていては自分が破綻してしまう。逆に持たなすぎても、自分が維持できない。これも又人間が悪に転じてしまう一端となる。 罪悪